長嶋さんと私~福山・追悼展に寄せて<上>

 「長嶋茂雄追悼展 ミスタージャイアンツ 不滅の背番号『3』」(読売新聞社など主催)が12日、広島県福山市の天満屋福山店で始まる。長嶋さんとゆかりのある広島出身の野球人に忘れ得ぬ思い出、エピソードを聞いた。

元巨人、広島投手 小川 邦和さん 79

 読売巨人軍へ入団直後の1973年、春のキャンプ地だった多摩川グラウンド(東京)で見た光景が忘れられない。チームのとは別の水色のジャンパーを羽織り、さっそうと現れた選手に目を奪われた。

小川さんは現役時代のユニホームを前に、長嶋さんとの思い出を語った(千葉県鎌ヶ谷市で)小川さんは現役時代のユニホームを前に、長嶋さんとの思い出を語った(千葉県鎌ヶ谷市で)カープファンだったが

 プレー中でもないのに視線が引きつけられる。長嶋茂雄さんの<オーラ>に初めて触れた。「歩いているだけで後光が差していた。スターはこれほど大きく見えるのか」。小川さんは、ただただ圧倒された。

 幼少期から広島東洋カープのファン。だがカープ入りはかなわず、入団テストを経て26歳で巨人へ。ルーキーイヤーはV9最終年で、32試合に投げて3勝0敗。2年目はキャリアハイの12勝(4敗)を挙げた。

旧後楽園球場で力投する小川さん(1974年6月)旧後楽園球場で力投する小川さん(1974年6月)凡退、やかん蹴り上げ

 ある日、負けた直後にロッカールームで映像を見返していると、長嶋さんから「よく冷静に見ていられるね。悔しくないの」と声をかけられた。長嶋さんの勝利への執着は並外れていたという。チャンスで凡退すればヘルメットをたたきつけ、お茶の入ったやかんを蹴り上げた。小川さんは「驚くほど純粋
無垢(むく)
で雑念がない。だからこそ野球の神様に愛され、常人には理解しがたい『勘ピューター』が働いたのかも」と言う。

 長嶋さんが監督として初めて指揮を執った75年、最も思い出に残る試合を経験した。5月の中日ドラゴンズ戦。当日移動でナゴヤ球場に向かう新幹線車内で、突如先発を言い渡された。ローテーションの合間で登板予定はないだろうと、前夜は午前2時までマージャンを打って寝不足状態。でも、マウンドに立つとなぜか絶好調で、完封勝ちしチームの連敗を止めた。試合後、長嶋さんは「小川なら勝つと思ったよ」と笑っていた。

コーチ就任を後押し

 小川さんは球団と起用法を巡って意見が合わなくなり、けがもあって77年に退団。長嶋さんとも一時疎遠になったが、引退後に「こんな話があるんだけど、どうだい」とサムスンライオンズ(韓国)の投手コーチ就任を後押ししてくれた。契約交渉にも同席し、金銭面を詰めてくれたという。

 良い兄貴分だったという長嶋さんとの出会いはプロ野球人生の大切な一コマだが、心残りもある。投手として対戦できなかったことだ。「圧倒的な腰の回転の速さと、ジャズを思わせる即興的なリズム感は長嶋さんならでは。一度は真剣に投げてみたかった」

 追悼展では、長嶋さんの愛すべきキャラクターやスター性の背後に、猛烈な鍛錬があったことに思いをはせてほしいという。「あんな選手は二度と現れない。ミスタープロ野球は永久に不滅ですよ」。小川さんはそう言ってほほえんだ。(林佳代子)

 
おがわ・くにかず
 福山市生まれ。尾道商のエースとして1964年の選抜高校野球大会で準優勝し、早大、日本鋼管を経てプロ入り。巨人退団後は渡米して3Aなどでプレーし、広島には81年から3年間所属。日本での通算成績は29勝20敗9セーブ。引退後は千葉ロッテマリーンズの投手コーチなどを務めた。

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長嶋茂雄追悼展 ミスタージャイアンツ 不滅の背番号『3』

【会期】5月12日(火)~25日(月)

【会場】天満屋福山店7階大催場(福山市元町)

【観覧料】一般・大学生1200円ほか。詳細は
展覧会ホームページ
で。

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