落合、星野、岡田、長嶋、そして大谷……どんなスターにも「1年目」はあった。25人の名選手はプロ1年目をどう過ごしたのか? 彼らの不安定な新人時代のドラマを描いた『プロ野球1年目の分岐点』(PHP新書)が発売された。そのなかから、星野仙一のルーキーシーズンを紹介する。【全2回の後編/前編も公開中】

 星野の巨人戦初登板は、1969年5月7日の後楽園球場。6点ビハインドの6回からマウンドに上がると、二死から森昌彦の右肘に死球をぶつけている。

 前日、中日の主砲・江藤慎一が当てられ左手小指を亀裂骨折。このとき、マスクを被っていた相手捕手が森だった。水原監督は自分を追い出した古巣・巨人に強烈なライバル意識を持っており、星野がマウンドに上がる際、ベンチから「森にぶつけてこい!」と送り出されていたのだ。肝っ玉ルーキーは天下のONにも臆することなく勝負を挑んだ。王貞治には5月25日にカーブで2打席連続三振を奪い、「なんだ、王なんてたいしたことないな」と3打席目でもカーブを投げたら、ナゴヤ球場の場外に突き刺さる特大アーチを運ばれた。真っ向勝負を信条とする星野は、6月1日の広島戦で3者連続アーチを浴びるなど被本塁打も多かった。

 だが、そのマウンド度胸を買われ、7月には勝負どころのリリーフ登板も増えていく。『週刊ベースボール』1969年7月28日号には「連続五試合にリリーフばかりで、締めくくり役をつとめ上げ、十五イニングを無得点に抑えるなど“新・八時半の男”を、さながら地で行くような投球ぶり。これでセーブポイントも九つ目となり、大石(広島)と並んで切り札としての価値を、再認識させた」という記事が確認できる。なお、当時はセーブの公式記録がなかったが、記録が導入された1974年、セ・リーグの初代最多セーブ王は星野が受賞している。

 先発に抑えにフル回転し、ピンチを背負っても闘争心を前面に出してマウンドに上がる背番号22(1971年より背番号20に)は、オールスター戦にも故障の田中勉(中日)の代役で選出されている。

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