「タムラは凄かった……」。阪神ファン、野球ファンに今も鮮烈な記憶を残す伝説の左腕・田村勤(60歳)。天才はなぜプロ野球の舞台から消えたのか。現在なにをしているのか。NumberWebのロングインタビューに応じた。【全6回の1回目/第2回も公開中】

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「痛みのない世界に行ってみたい。ケガと無縁の世界で思う存分に投げたい。未だにそう思いますよ」

 消えた天才――。一言で片付けるには、あまりに惜しい逸材だった。歓喜の日本一から2年後の1987年から16年間続いた暗黒期にあって、阪神が唯一、優勝に近づいた92年。変則左腕の田村勤は抑えの切り札としてチームを牽引した。亀山努が豪快なヘッドスライディングで旋風を巻き起こした序盤戦、ピンチで登板すると、右打者の内角へズバッと直球を投げ込み、三振を奪って颯爽とベンチへ帰っていった。

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「インコースに行かないと、やられると思ってますから」

 落合博満、原辰徳、広沢克己、池山隆寛……セ・リーグの錚々たる右打者には少しでも甘く入れば、スタンドに運ばれてしまう。尻込みする瞬間はなかったのか。

「後先を考えたら、投げられません。右バッターの時はより燃えましたね。その壁を乗り越えないと、いつまで経ってもワンポイントですから」

 並いる強打者が恐れた左腕は、なぜ度重なる故障に追い込まれたのだろうか。

プロ初登板で事件「降板を拒否」

 90年秋、静岡県出身の田村はドラフト4位で指名され、本田技研和光から阪神に入団。急須でお茶を入れる姿が似合うため、“たむじい”の愛称で親しまれた。島田高校時代から目をかけていた今成泰章スカウトに「左打者用で獲る」と伝えられた通り、翌91年4月16日のデビュー戦は、怪物・江川卓を引退に追い込んだ大砲との対決だった。

「広島市民球場で同点の場面で登板して、いきなり小早川(毅彦)さんに2ランですよ。次の山崎隆造さんにもヒットを打たれて、すぐに大石(清)コーチがマウンドに来ました」

 投手陣の実権を握る年配者が交代を告げても、田村は背を向け、ボールを離さない。背番号36を囲むトーマス・オマリー、岡田彰布、和田豊、八木裕の内野陣は呆気に取られた。

 なぜ降板の指示に背こうとしたのか。実は、ある言葉が頭から離れなかったのだ。

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