
92年オフの契約更改で1億円プレーヤーの仲間入り
1991年(平3)は125試合に出場して打率・281。2年連続の50犠打に13盗塁と、36歳になった年にしては、そこそこいい仕事をしている。
でも、日本シリーズはダメだった。第1戦(西武)では1安打したが、第2戦からさっぱり打てなくなった。第5戦は2番から7番、第6戦は9番へ下げられても打てない。
打撃コーチの広野功さんに「迷惑をかけるから外してください」とお願いした。広野さんは大学時代から「平野は野手の方がいい」と言ってくれた人。中日では2軍打撃コーチとして野手転向、スイッチ挑戦の際に指導してもらった恩人だ。西武でまた一緒になるご縁があった。
「打つだけじゃなくて、バントもやってるし、守備もある。役に立ってないわけじゃないから、頑張って出ろ」
広野さんにそう言われて引き続き9番で出場した第7戦。ようやく仕事ができた。3回、佐々岡真司から右前打を放ち、0―1で迎えた5回、同点にしてなお1死二塁で代わったばかりの川口和久から左翼線へ決勝の二塁打。4―1の7回には北別府学から左中間へダメ押し三塁打を放った。
カープのエース級3人を打って3打数3安打2打点。最後の最後で7―1の快勝、日本一に貢献できてホッとした。終わり良ければ全て良し。めでたし、めでたしのシーズンになった。
翌92年も122試合に出て、打率・280。48犠打に15盗塁をマークした。が、ヤクルトとの日本シリーズでは力の衰えを感じてしまう。
西武球場のゲーム。荒木大輔と思っていたが、高野光だったかもしれない。「行った!」と思った打球が単なるライトフライ。もう一つ、ライト前のヒットで二塁走者の飯田哲也の生還を許した。補殺を狙って、なめたというか、ちょっと後ろに守りすぎた。
このシリーズは第5戦まで2番ライトで出場しながら18打数3安打、打率・167。第6戦からスタメンを外れた。それでもチームは前年に続いて4勝3敗で勝ち、3年連続日本一。オフの契約更改で年俸が1億円に届いた。
トレードで西武に来た時の年俸は4400万円。中日に残っていたら大幅減俸になっていたところを現状維持にしてもらった。しかも2番ライトという働き場所を与えてもらい、日本一を4度も経験させてもらった。中日から出してくれた星野仙一さん、中日球団に改めて感謝した。
1億円プレーヤーといっても当時の西武にはたくさんいた。秋山幸二、石毛宏典、辻発彦、清原和博、伊東勤、渡辺久信…。これが全盛期の最後だったかもしれない。
このオフ、管理部長として辣腕(らつわん)を振るってきた根本陸夫さんが退団し、ダイエー(現ソフトバンク)の代表取締役専務兼監督に就任した。このあたりからチームが変わってくる。
◇平野 謙(ひらの・けん)1955年(昭30)6月20日生まれ、名古屋市出身の70歳。名古屋商大から77年ドラフト外で中日入団。88年に西武、94年にロッテ移籍。右投げ両打ち。俊足強肩の外野手として活躍する。ゴールデングラブ賞9回。盗塁王1回。歴代2位の通算451犠打。引退後はロッテ、日本ハム、中日、社会人、独立リーグなどで指導を続ける。現在はクラブチーム、山岸ロジスターズ監督。
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