
出征前、軍服姿の阪神・松下繁二選手。抱いているのは生後8カ月の姪・英賀美奈子さん(1944年3月撮影)=阪田雄一さん提供=
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本紙が7月26日に本連載で伝えた「タイガースばあさん」の秘蔵っ子、阪神・松下繁二選手(戦死)の遺族が見つかった。母校OB会などでも行方がわからなかったが、本紙記事を読んだ大甥(おおおい)にあたる男性が名乗り出た。貴重な写真も見つかった。後日談として書いておきたい。 (編集委員・内田 雅也)
遺族は松下選手の姉の孫(大甥)にあたる阪田雄一さん(51=芦屋市)。戦後80年の終戦の日から3日後の8月18日夕、大阪・ミナミのスナック「堀井」の扉を開けた。
開店準備中だった堀井和人さん(77)は相当に驚いた。「探していました。よくお越しいただきました」
遺族は母校の明石高同窓会や野球部OB会でも消息不明だった。
阪田さんは先祖に阪神の選手がいると聞いていた。祖母で松下選手の姉、英賀咲(あが・さく)さんは熱烈な阪神ファンで「シゲちゃんが生きていたら」が口癖だった。大叔母の福井千代子さんからは戦前、松下選手と神戸・三宮を歩いていると「阪神の松下や」と騒がれ「誇らしかった」と聞いていた。
詳しく知りたいとインターネットで検索したが分からない。近年はネット上で「松下繁二」がヒットすればメールが届くアラートを登録していた。
2021年5月14日にアラートがあった。佐藤輝明が巨人戦で4番に座った日だ。阪神新人が伝統の一戦で4番を務めるのは松下選手を含め史上4人目。「やはり偉大な選手だったんだ」と喜んだ。
今回もアラートで知った。「タイガースばあさん」に戦地の満州(現中国東北部)からはがきを送っていた。
前回伝えたように「タイガースばあさん」とは阪神球団創設時からの熱心なファンで有力後援者だった田野ゑいさん。球場に通って応援し、選手に住居や食事を提供していた。田野さんは1933(昭和8)年夏、中京商(現中京大中京高)と伝説の延長25回を戦った明石中三塁手で、法政大に進んだ松下選手を特にかわいがった。41年の阪神入団は「タイガースばあさんの推薦」と当時主将の松木謙治郎が記している。
田野さんのひ孫が元南海外野手で引退後は南海・ダイエー、近鉄・オリックスでスカウトの要職を歴任した堀井さんである。
松下選手は1シーズン限りで41年オフには召集を受け出征。はがきは42年に書かれたとみられる。「好きな野球とも別れ……」と野球への愛情、「遠い満州の一端から阪神軍の優勝をお祈りしております」と阪神復帰への思いが記されていた。しかし、願いはかなわず、戦場に散った。戦死の詳細は不明だが、戦没プロ野球選手を慰霊する「鎮魂の碑」に名前が刻まれている。
阪田さんは「英霊とは言いますが、才能も夢もあった若い命が散っていったと思うと、言葉もありません」と思いをはせた。
はがきを目にしてから数日、実家を整理していると写真が見つかった。縁は飾り模様が施されている。初めて目にする大叔父は軍服に身を包み、めがねをかけていた。裏書きがあり「昭和19年3月」とある。一時復員していたわけだ。抱いている赤ちゃんは生後8カ月の阪田さんの母・美奈子さんだった。
写真は1枚だけだった。阪田さんは「より一層胸が詰まります」と話した。「この写真を永久に残したい。タイガースに所属した証としたい」と甲子園歴史館に寄贈した。阪神球団にも松下選手の写真はなく、貴重な1枚である。写真を目にした堀井さんは「一つの歴史が掘り起こされた」と涙ぐんだ。
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