阪神1944年優勝メンバー=『阪神タイガース 昭和のあゆみ』より=。後列右から3人目が辻源兵衛、右端が監督兼任の若林忠志、左から2人目が藤村富美男。帽子は軍帽、胸の文字は「阪神」。

 戦後80年となる終戦の日が近づいた。球団創設90周年にあたる阪神では創設期の主砲で剛腕でもあった景浦将や初代巨人キラーだった西村幸生……ら15人が戦争の犠牲となった。このなかに最年少19歳で戦死した選手がいる。プロ野球史上唯一、背番号のない選手である。愛称は「ゲンベエ」といった。 (編集委員・内田 雅也)

 「ゲンベエ」は名前を辻源兵衛という。和歌山・海草中(現向陽高)から1944(昭和19)年、阪神に入団した。スカウトしたのは後に「ミスタータイガース」と呼ばれる藤村富美男だった。

 海草中は39、40年と夏の甲子園大会(全国中等学校優勝野球大会)を連覇していた。39年は嶋清一(戦死=野球殿堂入り)が全5試合完封、準決勝・決勝ノーヒットノーランの偉業を達成。40年は真田重蔵(後に朝日軍、松竹、阪神など=同)が投打の軸だった。下級生の辻はベンチにも入っていなかった。

 嶋と同期で中堅手だった古角俊郎(故人)は「皆にゲンベエ、ゲンベエと呼ばれてかわいがられていた」と話していた。捕手も同姓の辻功夫で名前がそのまま愛称だった。

 甲子園大会は41年7月、文部次官通達により中止となった。予選が近づき、3連覇に向け校内合宿中だった海草中の部員たちは<誰もかれも合宿の畳をゲンコツでたたいてくやしがった>と結踏一朗『わかれは真ん中高め』(ベースボール・マガジン社)にある。同年12月には日米開戦となった。

 翌42年夏、大会はその文部省が主催し全国中等学校錬成野球大会として開催された。従来の朝日新聞社と主催者が異なるため、正史には残らず「幻の甲子園」と呼ばれる。

 エースで4番の真田は年齢制限が20歳から19歳未満と引き下げられ出場できなかった。通知は予選2週間前の7月4日。代わって急造投手に指名されたのが左翼手で1番打者だったゲンベエだった。

 1メートル75と当時としては長身の右腕。日ごろの打撃投手で制球の良さを認められた。監督の長谷川信義からフォームやカーブの指導を受けた。真田は<大会通じてベンチにいる辛さといったら、あんな苦しい思いをしたのは初めてであった>と海草中野球部史『輝く球史』に寄せている。主将として打撃投手を買ってでるなど裏方として支えた。紀和・三重予選を勝ち抜き、甲子園出場を勝ち取った。

 ゲンベエは初めての大舞台、甲子園でも好投を続けた。初戦の台北工戦は9回同点、延長10回逆転サヨナラ。福岡工も破り、準決勝で優勝校・徳島商を3安打に抑えるも0―1で敗れた。この活躍を復員していた藤村は見ていたのだろう。
 43年に入ると戦局は悪化し、全国大会は中止。4月3日、海南中戦が最後の試合となった。6月19日で海草中は活動を終えた。

 44年を迎えた時点で阪神の選手はわずか8人だった。次々と応召・出征していた。

 新人は辻をはじめ、海草中同僚で内野手の川北逸三ら4人。シーズン中に本堂保次が復員、巨人を退団した呉昌征が加わり、総勢14人だった。

 軍部の圧力は強まっていた。連盟は日本野球報国会と改称。ユニホームは国防色(カーキ色)、帽子は軍帽、脚にゲートル巻きという戦闘服スタイルとなった。阪神は伝統の「Tigers」が消え、縦書きに漢字の「阪神」と改めた。

 さらに背番号も廃止された。当時背番号があったのはプロだけで、後の連盟会長・鈴木龍二は『回顧録』で<できるだけプロらしからぬ印象を与えるように>との<苦肉の策>で興行色は消えた。史上、背番号がなかったのはこの44年だけだ。

 連盟関西支局長・小島善平が残した日記に開幕前の3月10日、<野球許可の正式通達ありたるや!!>とシーズン続行への祈りが記されている。平日は勤労動員で働き、公式戦は土日に限定、春夏秋の3季に分けられた。

 辻は新人ながら一塁手や外野手で起用された。28試合に出場、83打数20安打、打率2割4分1厘は粗悪品で飛ばないボールでは上々だ。投手としても2試合に登板している。

 春季、夏季と進めたが、各球団に応召選手が続出、秋季戦を前にシーズンは打ち切られた。阪神は35試合27勝6敗2分け、8割1分8厘の高勝率で2位巨人に大差をつけ、戦前最後の優勝を飾った。辻も堂々の優勝メンバーとなった。

 だが同年11月、報国会は休止を発表し活動を終えた。松木謙治郎によると翌45年元日から5日まで甲子園、西宮で行われた関西正月大会で辻もメンバーだったが出場していない。陸軍に召集されていた。

 45年1月、乗り込んだ輸送船が魚雷を受け南海に沈んだ。戦死公報には「1月12日、仏領インドシナ(今のベトナム)サンジャック沖で戦死」とあった。まだ19歳だった。プロ野球選手の戦没者では最年少である。

 東京ドーム脇に建つ「鎮魂の碑」に「辻源兵衛」の名が刻まれている。在籍1年。背番号のない、史上ただ1人のプロ野球選手である。 =敬称略=

 【猛虎「選士」たちの最期】
 プロ野球は1940(昭和15)年10月、選手を「選士」と呼称を改めた。本当の戦士となって戦場に散った。

 初代遊撃手の岡田宗芳は40年応召。同郷広島出身の藤村富美男が中国華北の駐屯地で偶然に再会した。「チョビ」(岡田の愛称)、「フジさん」と喜んだと阪神球団史にある。翌朝、藤村が訪ねると既に岡田の部隊は南方へ出発していた。間もなくニューギニアで岡田戦死の報が届いた。

 創設時の主砲で剛腕でもあった景浦将は39年、44年と応召。大相撲一行が満州・虎林を慰問した際、焼き鳥食べ比べをした旧知の横綱前田山が再会。歯が抜けてとてもやせていた。45年5月20日、フィリピン・ルソン島カラングランで戦死したとされる。早坂隆『戦場に散った野球人たち』によると、同じ部隊から帰還した人物の証言で景浦は飢餓状況で食料調達に出かけたまま戻らなかった。

 「初代巨人キラー」で酒好きから「酒仙投手」と呼ばれた西村幸生は「惜しまれるうちに」と39年で退団し満州に渡った。44年3月、赤紙が届いた。長女のジョイス津野田幸子は当時6歳。自宅の窓から戦地に向かう父を「お父ちゃん、バイバーイ」と見送った。父は振り返らず、右拳を掲げて通りの角を曲がった。グレーのコートの背中を忘れない。公報には45年4月3日、フィリピン・バタンガスで戦死とされる。

 巨人・沢村栄治が最初の召集から帰還した際に中国の野戦病院で会ったというのが小川年安である。慶大卒の初代捕手。沢村を「大根切り」打法で攻略した。1年限りで36年秋に召集された。44年、中国で戦死とされる。初代主将・松木謙治郎は著書『タイガースの生いたち』に<復員していれば、人柄からみて戦後は必ず監督になっていた>と記した。

 左腕・三輪八郎は高崎中から入団2年目の40年8月3日、満州遠征の巨人戦で球団初のノーヒットノーランを達成した。当時18歳だった。43年限りで応召。中国戦線に赴き、44年8月17日、山東省沂水(ぎすい)にて戦死した。
 =敬称略=

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