【渡邊雄太 #1】 アメリカ行きを決めたのは|夜明けのコール

能力マクスさのプレイをやってたらまアメリカでは絶対にあの通用せなかったと思うのでま自分もやってきたくってあの正しかったなっていうのがいましたね [音楽] プロバスケットボール選手の渡辺ゆです [音楽] もう記憶は全然ないんですけど横浜生まれてその後徳島で 2 年ぐらいですかね過ごしてで香川に僕が4 歳ぐらいの時に引っ越してきたんでま記憶はもう香川の時からしかないですはい うんうんうんうんえっと醤油1からな6 歳とかですかねはい そうでしたね他のスポーツはま何も考えなかったですね もバスケに自然にこう入っていったって 感じですねそうっすねあの親の影響が もちろん大きくてであのま当時その香川に 引っ越してからあの母親がその地域の バスケットボールそのなんて言うんですか ミニミニバスケットボールクラブのあの コーチをし出したんでまよく練習ついて いって見学してたんですけどま小学校から しか入れなかったんでそこのあのクラブは 小学校上がったタイミングで自分も入り ましたまあでも練習見に行ってもなんか 一緒にこう他に来てるなんか同じぐらいの あの子たちというかとなんか炭の方で なんか鬼ごっこしたりとかして多なんか 当時はそんなに別にバスケ始まり始める まではなんかこうバスケの夢中になってだ とかいう感じでは多分なかったとは思い ますはい いやもう初めてからはもう本当にバスケ人一筋って感じで もう本当ずっとそのバスケ以外の競技やりたいと思ったこともないですしおバスケ 1 筋でしたねうんなんだろうなもとにかくもう中でその練習毎日行くのが楽しくてっていう感じだったのは覚えてるんでま何がって言われるとちょっとはいちょっとわかんないすね もう本当にもちろん試合にも出るわけでも ないですしただなんか あのなんて言うんですかまコートが2面 使えて片面上級生が練習して片面はあの 火級性というかあのちょっとお遊びで バスケやるっていう感じがずっとあの続い てたんですけどなんかそこでこうみんなと なんかなんて言うんですかね 楽しくまもも遊びに近かったですけどね 当時はそれをやってるだけで本当楽しかっ たっていうのは覚えてますまその大きい方 ではあったんすけどそんなそのズば抜きと 大きいとかではなかったですしま僕より 大きい子も何人かいたりとか確かしてたと 思います nb選手になりたいって思ったのは多分 小児ぐらいの 時だったんですけどまその多分バスケやっ てる人は誰もが1度は思うことなんで僕も 本当に当時は本当 そのみんないる中の1人っていう感じだっ たと思いますでも神ブライアントがあの 本当に僕は大好きだったんでレイカーズと 神尾のも大ファンでしたまもちろんこんな 選手になりたいっていつも神尾の試合見 ながら思ってはあのいましたけどま言って もま当時小学校1年生とか2年生とか本当 まだあのそんなお遊びでバスケットしかし たことないあの子供だったんでなんかま そこまで別に深くなんかこれから先もバけ やっていくのかとか別に深く考えてたとか じゃなくてもう単純にもこんな人にななり たいっていうそれぐらいの気持ちでした [音楽] ま本当にもう本格的にちゃんとそういう なんか練習したのはま僕は試合出るように なってからなんで4年生とか5年生とか あのぐらいだったんですけどま基本的に あの週練習は当時4回で体感が使える日が で土日もま午前練習とかだったんでまお昼 あのお昼ご飯とか食べてあのま 食べ終わった後にいつもあのお父さんと 録画してたの指を見るっていうのが日家 だったんですけどあのま見終わった後に お前もここでプレイしたいんだろじゃあ 練習行くぞって言ってそこからあのま当時 リングがなかったんで近くの小学校の グラウンドをとにかく走ったりとかそこで ドリブル練習したりとかしてましたねもう そうですねもうそうその小学校高学年 ぐらいからはい もう本当にわけ付けな生活でした うん いやいやもちろん羨ましかったですしそのままだそんな別に子供なんでやっぱ自分からこうまだその努力の大切さみたいなのもそんなに正直分からない その年代でしたしあのやっぱバスケのなんて言うんですかね能力的にはま当時からその同年代のこと比べるとやっぱまあの上にいたんでそのま正直なんでこんなにしなきゃいけない ないのとはあの思った日はありましたね うん だって周りはそれはなんかゲームして遊ん だりとかなんかわかんないですけど出かけ たりとかあのしてる中でそのそういうのを こうやらずにもうバスケも僕の場合は バスケにあの専念してるわけですからその 中学校の頃の自分がそれをやっぱこう自発 的にやるっていうのはやっぱなかなかそこ まで別に僕も大人じゃなかったと思います しそんなプロの世界がどれだけ厳しいか なんてもう全く分からないんでまそこは 本当に親が僕をそういう努力できる体に 導いてくれたっていうのはすごい本当感謝 してますね 中学校の時はあのま実家でずっといてま やっぱ親があのそういう風に僕をいつも 努力する方向に導いてくれてましたし高校 は3年間両生活でもうとにかく本当に3 年間バスケ付けの生活だったんでそのもう 練習しなきゃいけない環境に本当にもう 元々いたんであのもう勝手にやってたん ですけどアメリカに行ってからは割とこう 自分の時間が増えたというかま大学生にも なりましたしだその時に初めてその周り からこう言われるとかじゃなくてもう自分 からちゃんと行動しなきゃいけないなって いうのをあのこう本気でこう思うように なりましたね努力自体はま多分ま中学校の 時とかは多分日本の誰よりも練習は間違い なくまもちろん親がもうなんなら僕が どんなにあの嫌でも無理やり引っ張って 行ってくれるようなお父さんだったんでま もう本当今となっては本当すごい感謝して ますけどでもうそうですね高校時代も もうぶ授事業終わったらもう本当夜遅く までずっと練習してもう常に体感にい るっていうあのスケジュールだったんで はい自分から本当こう何かこう スケジュールを自分で組んでちゃんと自分 の時間を取って練習しなきゃいけないと なったのはアメリカ行ってからですねま そうまプレップまアメリカに行ってからが やっぱりその日本ってチーム練習がやっぱ すごいこう長いというかチーム全体でもう やっぱり何時間も時間取って練習するって いうのに対してアメリカの練習はま1時間 半とかでもうスパッと終わってしまうんで ま本当に最初の1週間ぐらいはそういう あのもうみんなと同じようなこう生活して 練習終わったら両帰ってみたいなやってる 時にあ俺何しアメリカ来たんだろうと思っ てうまくなるために来たはずなのに自分 より能力の高い選手と同じ生活してたら 絶対うまくなれないと思ってそっからも 練習外でまとにかく練習するようになった んで大学行った時にはもうすでにはい もう時間空いてる時間は練習するっていう 風な生活はしてましたねま そもそもあの質に関してはもう自分が決め てやってることなんであのなんて言うん ですかね誰かに言われてやってる練習って やっぱどうしても質があの落ちてくるん ですけどまもしかしたら中学校の自分は あのそうだったかもしれないですけどあの もう大学の時とかは自分がうまくなるため に毎晩もう体感にどんだけ遅くてもあの 残ってもうたまに本当に12時とか過ぎ てるような時もありましたけどもうこれ だけやるって決めたことをもう絶対欠かさ ずにあのやり続けてたんで質に関してもま 量に関してもま大学の時はもう自分ない ぐらい正直あのやった自信はありますね 小さい頃から試合の映像をもう試合終わっ たらいつもあの家に帰って親と一緒に 見返してここの動きがいいとかまここの 動きがだまあeに対してダメが多分1対9 ぐらいではいもうダメ出しが多かったん ですけど当時はま本当下手くそだったんで でま高校のあの時のあの先生ま鹿松先生 っていうあの方なんですけどあの本当に とにかく頭をあの生徒にこう使わすという かあのま僕ももう高校時代はもう本当に 身長もぐっと伸びて正直あのそこまで頭 使わなくてもあの活躍できてしまうぐらい のあのまレベルには高校3年生の時は正直 あのなってたりもしたんですけどそうそう いう中でもその今のプレイには何のその 意図があるのかとかそういうことをなんか こう毎回毎回こう問われてというか ちゃんと頭が頭を使った上で選択した プレイなのかそれとも自分の能力に任せた プレイなのかみたいなのをこういつも指導 してくださってたんでだその時に本当に 自分の能力があの他の1人優れてるから もう頭も使わずにあの能力マさのプレイを やってたらも もうアメリカでは絶対にあの通用せなかったと思うんでやっぱもうここの 3 年間がやっぱすごい大きかったかなと思いますね うん なんかそこはうんやっぱ目指してるところ が あのやっぱりそこ上にあって でやっぱ自分もあの日本代表の候補に呼ば れてあやっぱもっと高いレベルがあるんだ とかそれこそnbaに行きたいと思ってた んででこ日本代のレベルでこんなに高いん だったらnbaなんて本当どんな世界なん だとかそういうことをなんか常日頃から 思えるようなあの ま環境にまありがたいことにさせてもらえてたんでそういうのも含めてやっま自分もやっぱもっとうまくなりたいっていう気持ちからあのま素直にやっぱ先生の言うことは聞きてたかなっていう風に思いますねうん [音楽] もう 現実的にそういう話し出したのはあの本当 そろそろ大学どこ行くか決めなきゃいけな いっていうもう高校2年生終わりぐらいの 時ですかねそれまでは本当全然nba選手 になりたいとは言いつつじゃあどの タイミングでアメリカに行くのかとか全く 考えてなかったんでなんかアメリカ行きの 話が出出した出出してからはなんかこう トント拍紙で決まっていったって感じでし たけどそれまでは全然何もそんな具体的な 話はなかったですねま高校2年生の時の冬 の全国大会でまあの当時本当にまだまだ 無名だったんですけど人生学園もそうです し僕自身もが準優勝あのすることができた んでそこで本当いろんな人に僕のプレイを あの見てもらってであこんな高校生が今 日本にいるんだっていうとこをすごいこう みんなあのこう見てくれたというかそこで 本当いろんな人からもうすぐにアメリカに 行った方がいいっていう話をされ出して ですねはいいや当時は本当にもう正直ま そういう声今頂いたって言いましたけど もう反対の声の方がもちろん多く てはいもうやっぱ言っても僕もまだ17歳 とか18歳の高校生なんでそんなに反対さ れたらあ自分がやろうとしてること間違っ てんのかなっていう気持ちには正直何回も なりましたしただあのま僕のことをこう ずっと見てくれてる人というま親含めてま 当時の恩師だったりとかまそういう人たち はあのもう優太の人生だからとにかくもう ゆ太が決めなさいっていうことをもう とにかく言い続けてくれたんでま最終的に はも自分がそのアメリカに行きたいって いう思いを信じてはいその決断をしました タブさんとま実際お話しさせていただいた のはまお父さんでましかもそれはアメリカ に僕がもう行くって決まった後ではあった んですけどあのまでも僕がアメリカに行 くって決めてからも正直結構反対はあの まだ続いてた中で田さんがもうあの絶対に あのやろうとしてることは間違いてないで すっていうことをお父さんに言ってくれて でその話をすぐ僕もあのお父さんから聞い てっていうはい感じだったんでまあの すごい心強かったですねやっぱりあのそう いう反対ばっかりの声の中であれだけ偉大 な人がま自分がやろうとしてること間違っ てないんだっていうのはやっぱりこう 思わせてくれたんで [音楽] いや不安めっちゃ不安でしたよもう正直 大学はその後行けるかどうか分からなかっ たんでそのままプレップスクールって呼ば れるとこに最初1年間とりあえず行って そこであのまバスケもあのすごい高い レベルでできるんででそこにま大学のあの スカウト人が見に来て目に止まれば大学に 入れるっていう流れだったんでまそこで もちろんスカウズの目に止まらなかったら もうその先僕は行くと もなくなるわけですしま本当にもうギャンブルみたいなあのもう家計だったんで一種のま結果的にジョージワシントンっていう本当素晴らしい大学に行けたんで良かったですけどま不安は正直当時めちゃくちゃありましたね [音楽] 多分アメリカに行っ て23日経ったぐらいの時に親に多分連絡 して俺やっていけるかもっていうのを なんか言ったらしいんですよね僕あんまり 覚えてないんですけど それがやっぱ僕もやっぱアメリカっていう だけでもう僕なんか全然手の届かないよう なレベルの選手ばっかりなのかなと思って たらやっぱ意外と自分の力がこう通用して たんであこれはもしかしたらアメリカでも やっていけるかもしれないとは思いました ねそのやっぱり僕の身長でアウトサイドが でき るっていうあの選手がもちろんアメリカに はいるんですけどそんなにやっぱ多くなく てやっぱりアメリカでもやっぱ大きい人は インサイド小さい人がアウトサイドって いうのはやっぱ結構あってま特にそういう まプレップスクールだって大学のレベルだ とでやっぱ僕のそのプレイスタイルは やっぱちょっとあのその言ってた学校の中 でもまちょっと特殊だったというかやっぱ あんまりそういうアメリカにもあのそこ までいない あのこうプレイススタイルなのかなって いうのは当時思ったんではそうそう まそういうのも含めてなんかやっているん じゃないかなっていうのは思いましたね うん多分最初があの親に連絡した時の 手応えっていうのは多分プロになれると いうよりははい 大学に自分もあの大学からオファーもらえるぐらいの選手にはなれるっていうぐらいのはいあれだったんで正直大学 1年生2 年生の時はnba は遠いなっては正直すごい思ってました それもちろんまプレップスクールも僕が言ってたとこはいつも本当優勝を争うぐらいの全米で本当レベルの高いところででま僕の僕もちろん僕のチームメイトに nba 選手になってましたし僕が対戦してた選手も何人も nba 選手になってたりですごいレベル高かったんですけどやっぱ大学に行ってそれこそやっぱりこう学年とかが上野選手とやるっていうのは全然違う はいあのレベルの高さだったんでやっぱ1 年生2 年生の時はやっぱ結構苦労したっていうのは覚えてますね うん もう努力するしかもとにかくはい道はもうなかったというかあのそういうのを こう分かった上で僕もこうアメリカにやっぱ飛び込んできてたわけだったんで だからある意味そこ まであの大学の時 はあのもう国ならなまもちろん勉強とかが 大変で全然別の苦労があったんですけど そのプロに行けるかどうかみたいなことに 関してはそんなにもう深くも考えてなかっ たというかもう自分がちゃんと努力して ちゃんと力をつければあのどっかしらから 見てもらあれだろうしもうそこに至ら なければしょうがないぐらいでもう結構 割り切ってはいたような気がしますね そこが本当に 唯一当時の自分に何かもし言うとしたら もっと勉強しとけっていう英語の勉強もう やっぱそこが相当大変だったんで はいもうほぼ英語力は0でアメリカに実際 行きましたね最初は 生活その中でやるしかなかったんで もうなんて言うんですかね生活しながら 覚えていったっていう感じですねで意外と バスケ中はあのバスケの用語ってま もちろんバスケットがそもそもアメリカ から来てるんでバスケットで使う用語は もう英語ばっかりなんでま最初から意外と コートでは割とコミュニケーションはまだ 取れたんですけどま生活がやっぱりこう 全くだったんでもうチームメイトとにかく もう一緒にいてもう何言ってるか最初は 全くわかんないですけどもうそのなんて 言うんですかねもう体を慣れさというか耳 をやっぱこういう場に慣れさないとって いうのはずっと思ってました3年ぐらいで やっと こう自分の意見もなんとなく言えるように なってま聞き取れるのに関しては ま1年2年ぐらいで多分ま半分とかぐらい は聞き取れるようになってたんでまあは こう聞き取れた言葉で推測しながらこう いうこと言ってんだろうなっていうのでま なんとなくあの石疎通はできてたんです けどやっぱ喋るがちょっとやっぱ時間 かかりましたね 普通の事業を僕も英語でもちろん受けなきゃいけなかったんでもう本当 1強化につき1 人家庭教師みたいな感じでもうタイン落としたらバスケットができなくなるんでもう本当に勉強面はかなり苦労しましたま先行もちろんあのしなきゃいけなかったんでまそこはちょっと日本文学っていうのを はい先行して はい でもさすがにあのあのなんかジャパニーズムワンノーワンとかそういうちょっと簡単なクラスは日本人が受けれるわけないだろって言われて はいなんかもうもちろんその英語で日本のこう文学士みたいなの読んでそこからなんかいろんなことを学んでいくみたいなま結構やってると面白かったですね [音楽] いやもうプロと一緒ですよもうやってる ことはもうプロが勉強を受けてるみたいな あのもう本当僕はその違いだけだと正直 思ってるんですけども下手したらもう施設 に関してはプロよりも全然いいはいあの 施設で毎日練習もしてロッカールームも 本当にすごいロッカールームがあってで その試合前だと相手のスカウティング みたいなのももうすごい量の スカウティングがあってみたいな もう本当にお金をもらってないプロっていう感じでした そうアリーナも本当すごくてあのま僕の大学はまだとね小さいあの大学あそのアリーナだったんですけどもう大学によってはもう 1万人とか1万5000 人とか入るアリーナで試合するような時もあったんでもうそこから本当になんかこうプロの準備がもしっかりできてるっていう感じでしたね 本当にもう一学生であることにはあの 変わりはないんでまだからあの僕らみたい なそのスポーツしながらあのそういうや あの学生である人のことをまudアスリ トっていう方をあのよくするんですけどま よく言われるのはアスリートスーデント じゃないんだってスデントアスリートなん だもうとにかくそのお前たちは出伝とか先 でアスリートはその後に来るから勉強は その学生である以上ちゃんとや れっていうことはおにかく言われてたんで あの遠征から遅くに帰ってきても次の日朝 事業8時から事業があればま8時からの 授業ちゃんと出てっていうのをやったりし てたんで結構大変でしたね [音楽] 卒業に関してはあの僕はもう3年終わった ぐらいである程度タ員がもう取れてる ぐらいには夏も結構あの日本に帰らずに 事業を受けたりとかしてサマスクり出たり もしてたんで4年生の頃はあ結構あの事業 数も減っ てはいもう卒業は心配ないぐらいにはなっ てましたね4年生の時はあのその分時間は より取ることができたんでよりバスケット のこと考えれるっていうのはありました 特に本当にあのま3年生から4年生になる タイミングの時はもう1回も日本に帰れ なかったですしまそれまではあの2週間 ぐらいはちょっと日本に帰ってですぐ アメリカに戻ってっていう感じだったん ですけどもうその年は本当に一切日本に 帰らずにもう勉強とあとはま空いてる時間 をとにかく練習してっていうことをやって たんでま今思うと本当によくあれだけあの やれたなっていうのは正直思います でもなんか当時の自分はなんか そんなこともなんかもう考えてなかった ような気がしますもうとにかくやらな きゃっていう気持ちでもう体をもう とにかく動かしてっていう感じでしたね 向こうの大学ってすごい厳しいんでそう いうまプロとの接触とかもちろんもう禁止 されてるんででま僕は当時のレベルで言う と多分nbaにあのちょっと届かない ぐらいのレベルにいたんでもうとにかく 卒業した後にまいろんなあのチームからま 招待戦のワークアウトがあるんですけどま 本当にあのそういうとこを回りながら自分 の力をこう示してっていう感じになるなっ ていう風に思ってました そうすねブリズリーズからオファーもらっ たのはまサマーリーグっていうあの ま大学上がりの選手だったりとかまnba でやってるま若手の選手があの夏にやる 大会なんですけどまそこであの結構活躍 あの僕もできてでその大会が終わった後に グリズから連絡があってあの契約を是非し たいっていう風に言ってもらえたっていう 感じでしたえっと僕の場合はあのもう とにかく向こうどのチームでもいいんで 興味を持ってくれないと自分からあの 行けるようなレベルではなかったんでもう とにかくオファーを待つしかないっていう あの状態だったんですけどでそれで言うと グリズリーズはそのまさっき言った大学 卒業してからのあのワークアウトはグリズ から呼ばれてなかったん で正直すごいびっくりしたというかまでも それぐらいやっぱサマーリーグでの インパクトがやっぱあったのかなっていう 風にあの思ったん でいや まあうーん今考えるともうやっぱやりたく ないですよそのああいう本当全員がもう これがこのチャンスを逃したらもう次はな いっていう気持ちでもう僕含めてその場に いてでもやっぱりその中で試合に出れる人 出れない人活躍できる人できない人がいる 中であのサマリーグて本当に5試合ぐらい しかないんでで特に最初の1試合2試合と かで活躍できないともう次の試合から出れ なくなっちゃうんでもう本当にもう初戦が とにか もう俺の人生を決めると思ってかなりこう 緊張してたのを覚えてます予想より早い タイミングで自分が呼ばれたんである意味 そこまで緊張することなくなんかコートに 出れたのは覚えてますねなんか急あまりに も急すぎてもっともう本当試合の最初は 試合の終盤とかであの出されてそこでなん とか結果を残してその次の試合でもう ちょっと時間もらってでその次の試合で もうちょっと時間もらってっていうことを 正直考えてたんですけど結構本当にもう 序盤の序盤で言うた行けって言われ てなんか心の準備もできないままコートに 入っていったっていう感じだったんである 意味逆になんかそんなに緊張もせずって 感じだったような気がします やっぱnbaでやっていくためには僕は やっぱもう3ポイントのディフェンスだと 思ってたんでもうその2つをもうとにかく あの証明しなきゃいけないっていう状態 だったんですけどま初戦で本当その両方 ともはいあのある程度の力は見せれたのか なっていう風に思いました特に意味はない ですけど優勝まで決めるんでま1年1年目 の僕のチームは全然優勝できるようなあの こうあれではなかったんですけどまでも僕 は5試合ともあのそれなりのプレイタイム をもらってはい結構自分の中でもこうこう なんて言うんですかねあ自分やれたなって いう感じがありましたね [音楽] まもうあのエージェントつけてたんであの エージェントを通してですけどまさその サマーリーグが終わって僕ちょっと しばらく日本でちょっとゆっくりしてる あの時期だったんですけど本当にもう夜中 にエージェントから連絡がま日本の夜中な んで向こうはアメリカは全然昼間だったん ですけど来てグリズリズがオファーをして くれるって言ってるっていうもう飛び起き たの覚えてますはい4 時とかだったです朝のはい そうですねもうそっからは興奮してもう寝れなくてそのもう早くこうなんか誰かに伝えたがったんでもう親が早く起きてくんないかなと思いながらもうなんか 2 時間ぐらいずっとそワそうしてたの覚えてますね いやもう大家がそのま隣の部屋なんです けどこう音がしたんであ起きたなと思って 僕も自分の部屋から出てで親が出て きてきたと同時にグリズリズがおはして くれるって言ったらもう母親もう泣き出し て喜んでくれていやもうあの瞬間は本と すごいこういい瞬間でしたねやっぱ自分が やってきた努力だったりそういうのってあ ちゃんとこう報われたんだなっていうのを 正直あの大会で思ったんで そのなんて言うんですかねサマリーグに 本当出てるメンバーメンバーっていうのは もう本当に名門大学のそこでもう活躍した ような選手がそのそこに出てnbを目指し てるっていう中でまジョジワシントンって いう本当にあのそこまでも強くも またその大学でのあのそんなに致名度も なかった選手がそういう中に入って ちゃんと自分のプレイをして結果を残して で米のチームからオファもらってっていう あのところに行けたんであがやってきた ことってあの正しかったんだなっていうの はそん時思いましたね [音楽]

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<映像目次>
00:00 オープニング
01:45 ただ一筋にバスケ
03:01 子どもの頃のヒーロー
04:03 両親が導てくれた「努力できる体」
06:23 努力の量と質
09:36 才能に頼らずに「頭」を使う
11:51 アメリカ行きを決めたのは?
13:51 レジェンド・田臥勇太の後押し
14:41 大学からスカウトがあるまで
15:33 プレップスクールでの予感
18:48 英語力ゼロの崖っぷち大学生活
21:16 カレッジスポーツの選手たち
23:00 バスケに集中した最後の一年
24:58 グリズリーズからのオファー
26:12 生き残りを懸けた極限下のサマーリーグ
28:27 夜明けのコール

<<SHOVEL SPORTS>>
シャベルスポーツは、 「お宝トークを、掘りだそう。」をコンセプトに、様々なスポーツのトップアスリートへのインタビューを通じて、世間のイメージやスポーツニュースの裏側にあるリアルなアスリートの人生哲学や競技への想いを掘りだして記録する、スポーツ映像メディアです。

アスリートのキャリアを通して、彼らが目指してきたことや、視聴者に共有したい知識や技術、社会への提言、そしてすべての人生に通じるモチベーションの源泉など、時代を超えて人の心を動かす物語を、余すところなく伝えます。

そして、彼らが歩んだ人生の「記憶」を貴重な映像の「記録」として、スポーツの未来を担う次世代の若者たちと、スポーツを愛するすべての人に、届けていきます。

【渡邊 雄太 (わたなべ ゆうた)】
2018年にNBAのメンフィス・グリズリーズと契約、日本人として2人目のNBAプレイヤーとなる。その後もトロント・ラプターズ、ブルックリン・ネッツ、フェニックス・サンズ、グリズリーズ(2回目)と、NBAチームでプレイ。
FIBAバスケットボールワールドカップ2023(W杯)では日本代表として情熱溢れるリーダーシップを発揮し、アジア1位となってパリオリンピック出場権を獲得。パリオリンピックでは日本代表チームの共同キャプテンを務めた。
2024年7月、日本人最長となる6シーズンのNBA生活に自ら終止符を打ち、Bリーグでのプレーを決断。日本バスケットボール界の発展と底上げを目指し、コート内外で精力的に活動中。

<渡邊雄太氏 最新著作>
「心 NBAで運命を切り拓いた本当に大切な想い」 https://amzn.asia/d/fFrbPgO

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