日本野球界に偉大な功績を遺した長嶋茂雄。2001年をもって巨人監督を退任した長嶋を中心に、同年グラウンドを去った東尾修、仰木彬、そして星野仙一の“退任の舞台裏”に迫ったノンフィクションを特別に無料公開する。《初出『Sports Graphic Number2001/10/25緊急増刊号 長嶋茂雄 日本人に最も愛された男』「男の引き際。」》【全3回の最終回/第1回から続く】

 長嶋監督退任の動きは、8月14日、渡辺恒雄オーナーが“長嶋くんが辞めるというまで、ウチの監督をやってもらう”と発言したあたりから活発になり始める。周囲が続投を示唆すればするほど、長嶋監督も微妙な動きを見せるようになってきた。ふだんは新横浜で降りる新幹線を東京駅まで乗り続けるようになったのは、名古屋での中日戦に敗れた後であった。オーナーに辞任の決意を伝えたのは、その前後ではなかったか。

 次期監督候補が続々と挙がってくる中で、監督自らが強力に推したのが原辰徳であった。その理由は単純で、“自分の下で3年間、監督の修業をしてくれたから”というものであった。候補に挙がっていた堀内恒夫、江川卓では、今までやってきた長嶋野球が否定されることになる。それを避けるためには、どうしても自分と苦労をした原擁立をする必要があった。

 長嶋監督は80年に解任劇の主役となった。当時、江川卓が“Aクラスになれば監督は大丈夫と言われたからがんばった。あんなに必死になって投げたことはない”と言ったほど、チーム一丸でのAクラス死守だった。だが、チームの奮闘もむなしく長嶋監督は解任、それもファンの前での挨拶もないままだった。その結果、読売新聞の不買運動が起こり、部数は激減した。親会社、球団側は、そんな苦い経験をしているだけに、きれいな形で退任させ、監督が推す人物が次期監督になる、という形をどうしても取りたかった。だから、長嶋監督の退任に際して、ある程度の譲歩ができた。結果、長嶋監督は気持ちよくユニフォームを脱ぐことができたのだ。

「組織としての活性化を図るためには、若返りがどうしても必要なのです」

 長嶋監督のこの発言は、とりようによっては、自分と同世代の人間たちが、巨人のユニフォームを着て戻ってくることを否定しているようにも受け止められるのだ。

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