「がんばろうKOBE」

阪神・淡路大震災が起きた1995年、このスローガンを掲げてリーグ優勝を果たしたのが、神戸市を本拠地としていたプロ野球・オリックスブルーウェーブでした。

実はこの年、当時の球団関係者にとって、忘れることのできない1つの「敗戦」があったといいます。

(おはよう日本 ディレクター 村田裕史/大阪放送局 記者 山田俊輔 山内司)


異様な雰囲気に包まれた9.17




神戸市のスタジアムで行われたオリックスとロッテの1戦はかつてない熱気に包まれていました。

2位以下を大きく引き離し、リーグ優勝が目前に迫っていたオリックス。マジック「1」で迎えたこの試合は、本拠地で優勝を決める最後のチャンスでした。




当時、主力選手の1人だった田口壮さんは、球場の張り詰めた雰囲気、そして独特な緊張感が強く印象に残っているといいます。





田口壮さん
「全員にプレッシャーがかかっていた。絶対決めないといけないというすごい緊張感があったことを覚えている」




パブリック・ビューイングの会場からも大声援

スタジアムは満員。

震災によって傷ついた多くの人が球場で、あるいはパブリック・ビューイングの会場で、歓喜の瞬間を心待ちにしていました。




当時チケット販売の業務などを担当していた球団職員、花木聡さん(61)は、この試合の注目度の高さを鮮明に覚えていました。

オリックス球団職員・花木聡さん
「球場外のありとあらゆる木にファンが登って、試合を見ようとしていた。その熱量は経験したことがなかったし、もう空前絶後と言ってもいいくらいだった」


“何かが報われる瞬間”を待ち望んで

「祈るように見ていた」と振り返るのは、オリックスファンの小林幹志さん(47)です。




高校3年生だった当時、この試合をパブリック・ビューイングで観戦していました。

兵庫県芦屋市の実家で被災した小林さん。




被災した小林さんの自宅

自宅は半壊し、水道やガスも通じなくなり、およそ3か月にわたって親戚の家などに避難しました。

通っていた高校は大阪にあり、周りに被害を受けた人は少なかったといいます。小林さんは、被災したつらさや不安な気持ちを周囲に打ち明けることはできませんでした。





小林幹志さん
「クラスメートは優しくしてくれました。でも、近所には亡くなった人もいて、私よりももっとサポートや助けが必要な人たちがいるのではという思いもあり、悩みを吐き出せませんでした」




イチロー選手が大活躍(1995年)

そんな小林さんの支えだったのが、「がんばろうKOBE」を掲げて快進撃を続けたオリックスでした。

「マジック」と言われた仰木彬監督の采配。

象徴的な存在として、チームを引っ張ったイチロー。

そして何より、被災地を勇気づけようと奮闘する選手たちの姿に、つらさを忘れ、前を向く力をもらえるように感じました。

被災から8か月、共に頑張ってきた日々を神戸でたたえあいたい。

その願いを9月17日の試合に託していたのです。

小林幹志さん
「つらいことも多くあったけれど、優勝というのは“何かが報われる瞬間”になると思っていました。この試合に負ければ、ホームでの優勝がなくなってしまう。祈るような気持ちで見ていましたね」


あのフライを捕れていれば…

ファンの期待に応えるように、試合はオリックスのペースで進みます。

2回、岡田彰布選手、福良淳一選手の連続タイムリーヒットなどで3点を奪い、投げては先発・佐藤義則投手が7回1失点の好投。3対1と2点リードの8回、マウンドに上がったのは全幅の信頼を置かれていたリリーフ、平井正史投手でした。





平井正史さん
「あれだけ大きな震災があって、復興のさなかに見に来られている人たちがいて、やっぱり神戸で決めたいという気持ちがすごくあった」

この年、高卒2年目ながら15勝27セーブという驚異的な成績を挙げた平井投手。しかし、この日はすでに51試合目の登板。疲労は、とうにピークを越えていました。

2本のヒットとデッドボールで2アウト満塁のピンチを背負い、この年の打点王、ロッテの5番・初芝清選手との対戦、その3球目でした。

力なく上がった打球は、内野の頭を越えました。

センターを守っていた田口選手が前進、飛び込みます。




しかし、ほんのわずかに及ばず、ランナー2人が帰って同点。

スタジアムは悲鳴に包まれました。


消えない後悔 明暗分けた迷い

この場面、田口さんは“守備位置”について迷いがあったと明かします。





田口壮さん
「“もう少し右(レフト側)に行きたい”という感覚があったんですよね。でも僕には、そこまで自信がなかった」

当時、外野手のレギュラーになって1年目だった田口さん。

守備位置についてベンチから指示が出ていましたが、このときは「1メートルほどレフト寄りに守るべきではないか」と迷いを持ったといいます。




グラウンドに立った“プレーヤーとしての感覚”。

しかし、それを信じきれませんでした。

結果、ボールが落ちたのはその「レフト寄り」の位置でした。

“ボールとグラブの距離はわずか数十センチ、1メートルでも守備位置が違ったら…”。

その後悔は今も消えないと田口さんは言います。





田口壮さん
「ベンチもデータを全部見て判断しているし、指示が間違っていたわけではない。指示を受けて、実際に守っている人間がどう感じ、動くのかであり、全部自分の責任です。つらいですよね、自分の未熟さで失点を防げなかったわけですから…。捕れたんじゃないかな~っていうね…」


失意の中 拍手に教わったこと

傾いた流れは変えられません。

平井投手はこの回、まさかの5失点。




オリックスは逆転負けで、本拠地・神戸での優勝は幻に終わりました。

しかし平井投手がマウンドを降りたその瞬間、意外なことが起こりました。

球場が、大きな拍手に包まれたのです。

平井正史さん
「普通だったら何やってるんだとか罵声が上がる場面ですけれど、すごく温かい拍手が来て、野球でほかに泣いたことはないんですけど、あれだけは本当に涙が出ましたね。うれしい反面、悔しくて、もう1回やった時に、これが出ないようにという気持ちにもなりましたし」

この試合を見守っていた小林さんは、拍手を送ったファンの気持ちをこう代弁します。

小林幹志さん
「“今シーズン、ありがとう”と伝えたかったんだと思います。選手や関係者にも被災者がいて、その中でも選手たちはいっそう頑張ってくれたし、“がんばろうKOBE”を掲げてくれました。私たち被災者も選手も、一体になって“がんばろう”だったわけですから」




あの打球を捕ることができなかった田口さん。

拍手を聞いたとき大切なことを教わったと、目に涙を浮かべながら話してくれました。

田口壮さん
「人の絆、つながり、助け合い、思い、全部詰まっていたかな。助け合いながら前に進む。震災からの復興において大事なこと、その1つが“がんばろう”だよと。“みんなで何とかしていく”ということかな」




オリックス リーグ優勝(1995年9月19日)

その2日後、9月19日に行われた西武との試合で、オリックスはリーグ優勝を果たしました。




9回を任された平井投手は「同じ失敗は繰り返さない」と1本のヒットも許すことなく試合を締めたのです。


“がんばろうKOBE”をつないでいく




田口さんは野球解説者として活動するかたわら、震災を経験した1人として防災関連のイベントに参加するなどして、発信を続けています。

あのとき、スポーツの力が人々を結びつけ、復興に向けたエネルギーの1つとなっていたことを伝えていきたいと考えています。

田口壮さん
「当時の神戸の街が立ち上がろうとする力はすごかった。後にも先にも願いが強いほどかなうという体験をさせてもらったのはあのときだけ。ただ、どんどん当時のことが風化していることを実感している。被災したわれわれがいるかぎり復興はずっと続いていくと思う。それぞれの震災の経験を若い人たちに伝えていくことが僕たちの仕事だ」




球団ではことし、写真展を企画しています。

発案者は当時からの球団職員、花木さんです。




展示するのは、チームの写真だけではありません。

火災で焼け野原と化したまち。

倒壊した高速道路。

避難所に身を寄せる被災者…。

チームと共に歩んだ被災地の姿を知ってもらうことが大切だと考えているからです。

オリックス球団職員・花木聡さん
「われわれが伝えたいのはオリックスが優勝しましたよっていうことではないし、あれを美談にはしたくはない。地震があったという悲劇は前提としてありますからね。1995年、こういうことがありました。その中の一部としてオリックスも優勝しましたっていうありのままのことをお伝えする。経験した者の責任として、ですけどね」




あの年、「がんばろうKOBE」というスローガンの下、チームとファンは互いに支え合ってきました。

9月17日、神戸の球場に響いた大きな拍手は、その証しだったのかも知れません。

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