【巨人歴代OBが弔辞】長嶋茂雄氏の告別式|松井秀喜さん「監督、きょうは素振りないですよね?」王貞治さん&中畑清さんら弔辞で想い語る
[音楽] さ おじ [音楽] [音楽] きえ 正子長嶋げさん あなたへの頂上読み がこんなに早く来ると は思ってもいませんでした あなたは日本の健康有料児でした 存在そのものが日本人の誇りでした グランではグランドでは一挙種一等が日本 の不安の頃を引きつけました 日本があなたを追いかけました 大変だったと思いますが あなたは嫌な顔を1つせず 常に明るく存在していました 太陽のように光を放っていました 本当に特別な存在でした そんなあなたに私 は迷惑ばかりかけていました 昭和34年が入団した都市の宮崎キャンプ で同にさせ られ世間知らずの私 は部屋の片付け布団のげ下げなどすること もできず 挙げ句国はあるいは いびきは格で迷惑をかけっ端しだったよう で1週間で部屋を返させられました がその間長嶋さんは一言も文句を言いませ んでした アメリカ でベロビーチでキャンプした時 ロサンゼルスで1泊し てフロリダに飛んだんですがその出発の朝 私が寝坊してしまい長嶋さんが天窓から 部屋に入ってくれて私を起こし荷物を まとめてくれたので飛行機に乗り遅れる ことがなく住んだこともありました 私にとっては長嶋さんは超普通の人でした 長島さん私に普通人として接してくれまし た 長嶋さんに は頭が頭が上がりませんでした 足を向けて寝れない人でした そんな大人の長嶋さんとのこんなお別れ は到底受け入られません 皆さんも同じだと思います しかしそうは言って も現実に引き戻されてしまいます あとは静かに静かにお見送りするのみです 長島さんありがとうございました あなたとの64年私にとっては忘れること のできない貴重な年月でした 感謝するしかありません 89年間よくぞ頑張ってくれました 日本人のために頑張ってくれました ありがとうございました 安らかにおりいただくことを願うのみです 長め長嶋に戻ってゆっくりとお眠り ください さようなら 令和7年6月8 [音楽] 日王佐春をいただきます 中畑清様どうぞよろしくお願いいたします監督親父さんそしてミスター長い間ありがとうございましたあなたは私の人生の全てです 思い出 は山ほどあります 忘れられの が伊藤キャンプです 監督 と2人 で川わした 個人忘れられません ロックの天才ですね 飛び込んでも飛び込んでも絶対取れ取れ ない距離感それを打ち分ける天才です 取れないのにそれに向かってこの 下手くそ 下手くそ私はノッカーにこの下手くそ 下手くそと言い返しましたたまに売って くれるサービスボール嬉しかったです 取って喜ん で監督目がけて投げ返してましたその ボールにひょひょっと叫びながら踊り まくる監督との対決が忘れることができ ません 私の野球人生 で最高の思いです夢の時間でした そして伊藤キャンプの最終 日我々を苦しめ たバのでの ランニングバの平というのは急な坂道が 続いていくそして折り返し緩やかな坂道を 変るという一周するランニングコースです 厳しいですきつかったです私は最後の チャンスだと 思い塚にしのなんとか監督走らせろ1回 走らせろ消しかけたのは私です そして死野が普段にはないよう な監督のそばまで行って わざわざ偉そうに腕組んで見てんじゃねえ よ 1回自分で走ってみろ 出力ですそれに対して笑顔 で挑発に乗ってくれましたよね ぺっぺって両手に壺を履いて よし一気にあの坂を登り始ま始めたんです 一気に登り始めて姿が見えなくなり しばらくして帰ってきてくれるのかなと 思いましたけどなかなか帰ってこない やっと姿が見えた時にはもう生き たいケ割れし て子供がうんこ漏らしたようなそんな感じ で下手になって帰ってくるその姿を見て 我々選手は長嶋コールを始めました 長島 長島 長島ゴールした時 に 初めてさんご心様でした そして雲の上にいた監督長嶋が我々の ところまで降りてきてくれたのかな という感じを持ちました そしてみんな が長嶋ファミリーになった瞬間ではなかっ たかなという気がします ありがとうございました そしてもう1つ はミスターです この言葉 に本当に憧れを感じてました1度でいい から本人に向かってスターって呼びたかっ たです そのチャンスが現役終わり引退した後 に監督 とゴルフを千葉県のゴルフ場で一緒にさせ ていただくことがありました今日が チャンスだそう思って面というのはいり ます 背後から正格越しに ミスターとこうか たらおどうした 気し満面の意味で振り返ってくれました そん時 に子供のような気持ちで私は心臓が止まる ぐらい感動し喜んだことを覚えてます それからそれ以来ミスターミスターと 呼ばしていただきました ミスターのすごさ色々あります そんな中で私の中で忘れられないの はミスターは 万人に 対し誰にでも 対し心優しい笑顔を見せながら対応する 言葉をかけるあの 姿私は 謙虚 にビックになればなるほど謙虚に生きろ ということを教わったような気がします それを手本にこれからも 頑張っていこうと思います 本当にありがとうございました 頑張る だけ頑張ってきた89年だと思います ここで人息入れてください ゆっくり休んでください そして また その満面の笑 で国民の前に出てきてくれる夢を見指させ てください 安らかにお眠りください本当に長い間 ありがとうございました 同じく長子をいただきます 松井秀様どうぞよろしくお願いいたします監督今日はすぶりないですよねその目を見てるとバッと持ってこい今からやるぞと言われるようでドキッとします でも今はその声を聞きたいです ドラフト会議 で私を引き当ててくださり満面の意味で 親指を突き上げてくれました 対活ファンだと私は心の中でちょっと ずっこ しかしその すぐあと電話で松井君待ってるよと 言ってくださりあっという間に私の心は 晴れました 監督 は一ユニフォームも来てグランドに出ると 強烈な光を 走ですりする時 はバットマン長嶋になりました それが私の日常でした 監督 が引退された都市に生まれた私 は監督の元気時代を共に過ごした方々と 同じ気持ち になりたくてもなることができませんその 時代を生きていませ んですが逆に私 はその野球の神様長嶋知尾 をというものを肌で感じていないから こそ普段の普通の自分自身で接することが できましたそれ が私にとって非常に興奮幸興奮だったと 思っております 監督 を退任する日 私は最後のすぶりだと思っ て振っている途中 涙が止まりませんでした これが最後のすぶりになると思ったから です 何だ タオルで涙吹いてほら売るぞ そう声をかけてくださりました それが最後だと思っていましたが翌日も やりましたね として次の年も次の年もやりました 私は長嶋市から逃げられません これからもそうです それが私の幸せです 監督 私が現役時代1度だけ監督にお願いした こと覚えてますか 私はステンタを守っておりましたが 監督どうせなら私サードやらしてください よってお願いしました そしたらお前はサードじゃないよ お前はやっぱりセンターだ俺はお前を上 マリオにしたいんだとおっしゃって くださいました私は全くピンと来ており ませんでした ある日すぶりで監督のご自宅にお邪魔した 時私はそこにジョジマジのバットと ジョジマの大きな写真があることに気づき ました見逃しませんでした 監督は本当に料理マデオンは好きなんだな と思ってまたその選手のようになれと言っ てくれたのよ本当にその時幸せに感じまし たそれから私は喜んで全体が大好きになり ました その 時監督 は私がジョジマジオと同じユニオン来て 同じグランドでプレイすることを夢にも 思ってなかったと思います もちろん私も思っていませんでした 私が引退し て監督に挨拶に行った時 監督がジまよって言ったから私アンケース に行ったんですよって言っ たらこの笑顔を見せてくださいましたその 時あ初めて私 は大好きなジャイアンツを触うことになり ましたがこれで良かったんだと思いました そして今も遠い離れた場所にいます日本に 帰ってくるたび監督にご挨拶に行く と監督な監督の言いたそうなこと を言いそう言ようとするように言わないで もその気持ちはいつも受け取っておりまし た これから も監督が なぜ私だったのかなぜ私 にたくさんのことを授けてくださったのか その意味を その答えを自分自身の心の中で監督に問い 続けます 今度は私が監督を逃しませ んですから今日はありがとうございました もさようならも私は言いません 今後も 引き続きよろしくお願いしますとしてその 強烈な光 でジャイアンツの未来を日本の野球の未来 を照らし続けてください
0:00 6月3日に89歳で亡くなった読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄氏の告別式
0:42 王貞治さんの弔辞
5:17 中畑清さんの弔辞
12:33 松井秀喜さんの弔辞
▽王貞治氏の弔辞
弔辞。長嶋茂雄さん。あなたへの弔辞を読む日がこんなに早く来るとは思ってもいませんでした。あなたは日本の健康優良児でした。存在そのものが、日本人の誇りでした。
グラウンドでは、一挙手一投足が、日本中のファンの心を惹きつけました。日本中があなたを追いかけました。大変だったと思いますが、あなたは嫌な顔一つせず、常に明るく存在していました。太陽のように光を放っていました。本当に特別な存在でした。
そんなあなたに私は迷惑ばかりかけていました。昭和34年、私が入団した年の宮崎キャンプで同室にさせられ、世間知らずの私は、部屋の片付け、布団の上げ下げなどすることもできず、挙げ句に、寝相は悪いは、いびきはかくはで、迷惑をかけっぱなしだったようで、1週間で部屋を替えさせられましたが、その間、長嶋さんは一言も文句を言いませんでした。
アメリカで、ベロビーチでキャンプした時、ロサンゼルスで1泊して、フロリダに飛んだんですが、その出発の日の朝、私が寝坊してしまい、長嶋さんが天窓から部屋に入ってくれて、私を起こし、荷物をまとめてくれたので、飛行機に乗り遅れることはなく済んだこともありました。
私にとっては、長嶋さんは超普通の人でした。長嶋さんは私に普通人として接してくれました。長嶋さんには頭が上がりませんでした。足を向けて寝られない人でした。そんな大恩人の長嶋さんとのこんなお別れは、到底受け入れられません。皆さんも同じだと思います。しかし、そうは言っても、現実に引き戻されてしまいます。あとは、静かに、静かにお見送りするのみです。
長嶋さん、ありがとうございました。あなたとの六十有余年、私にとっては忘れることのできない貴重な年月でした。感謝するしかありません。89年間、よくぞ頑張ってくれました。日本人のために頑張ってくれました。ありがとうございました。安らかにお眠りいただくことを願うのみです。「長島茂雄」に戻ってゆっくりとお眠りください。さようなら。
令和7年6月8日。王貞治。
▽中畑清氏の弔辞
監督、親父さん、そしてミスター。長い間ありがとうございました。あなたは私の人生の全てです。思い出は山ほどあります。忘れられないのは、伊東キャンプです。監督と二人で交わした個人ノック、忘れられません。ノックの天才ですね。飛び込んでも、飛び込んでも絶対捕れない距離感、それを打ち分ける天才です。捕れない。それに向かって、「この下手くそ、下手くそ」。私はノッカーに「この下手くそ、下手くそ」と言い返しました。たまに打ってくれるサービスボール。嬉しかったです。捕って喜んで、監督めがけて投げ返していました。そのボールに「ヒョー、ヒョー」と叫びながら、踊りまくる監督との対決が忘れることができません。私の野球人生で最高の思いです。夢の時間でした。
そして、伊東キャンプの最終日、我々を苦しめた馬場平でのランニング。馬場平というのは急な坂道が続いていく。そして折り返し、緩やかな坂道を帰るという一周するランニングコースです。厳しいです。きつかったです。私は最後のチャンスだと思い、篠塚に「シノ、何とか監督走らせろ。1回走らせろ」とけしかけたのは私です。そしてシノは普段にはないような、監督のそこまで行ってわざわざ、「偉そうに腕組んで見てんじゃねえよ。1回、自分で走ってみろ」。すぐにです。
それに対して、笑顔で挑発に乗ってくれましたよね。ペッペッと両手に唾を吐いて、「よーしっ」と一気にあの坂を登り始めたんです。一気に登り始めて、姿が見えなくなり、しばらくして、帰ってきてくれるのかなと思いましたけど、なかなか帰ってこない。やっと姿が見えた時には、もう息絶え絶え。ケツ割れして、子供がうんこ漏らしたようなそんな感じで、ヘタヘタになって帰ってくる。
その姿を見て、我々選手は長嶋コールを始めました。「長嶋、長嶋、長嶋」。ゴールした時に、初めて親父さん、ご苦労さまでした。そして、雲の上にいた監督長嶋茂雄が、我々のところまで降りてきてくれたのかなという感情を持ちました。そして、みんなが長嶋ファミリーになった瞬間ではなかったかなという気がします。ありがとうございました。
そして、もう一つは、ミスター。この言葉に本当に憧れを感じていました。一度でいいから本人に向かって「ミスター」と呼びたかったです。そのチャンスが、現役が終わり、引退した後に、監督とゴルフを、千葉県のゴルフ場で一緒にさせていただくことがありました。今日がチャンスだ、そう思って、面と向かって言うのは勇気が要ります。背後から背中越しに「ミスター」と声かけたら、「おお、どうした、キヨシ」と満面の笑みで振り返ってくれました。
その時に子供のような気持ちで、私は心臓が止まるぐらい感動し、喜んだことを覚えています。それ以来、「ミスター、ミスター」と呼ばせていただきました。
ミスターの凄さ、いろいろあります。そんな中で、私の中で忘れられないのは、ミスターは万人に対し、誰にでも対し、心優しい笑顔を見せながら対応する、言葉をかける。あの姿。私は謙虚に、ビッグになればなるほど謙虚に生きろよ、ということを教わったような気がします。それを手本に、これからも頑張っていこうと思います。
本当にありがとうございました。頑張るだけ頑張ってきた89年だと思います。ここで一息入れてください。ゆっくり休んでください。そしてまた、その満面の笑みで国民の前に出てきてくれる夢を見させてください。安らかにお眠りください。本当に長い間ありがとうございました。
▽松井秀喜氏
監督、きょうは素振りないですよね? その目を見ていると、「バット持ってこい。今からやるぞ」と言われそうでドキッとします。でも、今はその声を聞きたいです。
ドラフト会議で私を引き当ててくださり、満面の笑みで親指を突き上げてくれました。タイガースファンだった私は、心の中でちょっとズッコケました。しかし、その後、すぐに電話で「松井君、待ってるよ」と言ってくださり、あっという間に私の心は晴れました。
監督はひとたびユニホームを着てグラウンドに出ると、強烈な光を発し、私と二人で素振りをする時は、バットマン長嶋茂雄になりました。それが私の日常でした。
監督が引退された年に生まれた私は、監督の現役時代をともに過ごした方々と同じ気持ちになりたくてもなることはできません。その時代を生きていません。ですが逆に、私はその、野球の神様、長嶋茂雄というものを、肌で感じていないからこそ、普段、普通の自分自身で接することができました。それが私にとって、非常に幸運だったと思っております。
監督を退任する日、私は最後の素振りだと思って、振っている途中、涙が止まりませんでした。これが最後の素振りになると思ったからです。「何泣いてんだ。タオルで涙ふいて、ほら振るぞ」。そう声をかけてくださいました。それが最後だと思っていましたが、翌日もやりましたね。そして、次の年も次の年もやりました。私は長嶋茂雄から逃げられません。これからもそうです。それが私の幸せです。
監督、私は現役時代に一度だけ監督にお願いしたことを覚えていますか。私はセンターを守っておりましたが、「監督、どうせなら私、サードやらしてくださいよ」とお願いしました。そしたら、「お前はサードじゃないよ。お前はやっぱりセンターだ。俺はお前をジョー・ディマジオにしたいんだ」とおっしゃってくださいました。私は全くピンときておりませんでした。
ある日、素振りで監督のご自宅にお邪魔した時、私はそこにジョー・ディマジオのバットとジョー・ディマジオの大きな写真があることに気づきました。見逃しませんでした。
監督は本当にジョー・ディマジオが好きなんだなと思って、また、その選手のようになれと言ってくれたことに、本当にその時、幸せに感じました。それから私は喜んでセンターが大好きになりました。その時、監督は、私がジョー・ディマジオと同じユニホームを着て、同じグラウンドでプレーすることを夢に思っていなかったと思います。
もちろん、私も思っていませんでした。私が引退して、監督に挨拶に行った時、「監督がジョー・ディマジオって言ったから、私、ヤンキースに行ったんですよ」って言ったら、この笑顔を見せてくださいました。その時、初めて私は、大好きなジャイアンツを去ることになりましたが、これで良かったんだと思いました。
そして、今も遠い離れた場所にいます。日本に帰ってくるたび、監督にご挨拶に行くと、監督の言いたそうなことを、言おうとするのに言わない。でも、その気持ちはいつも受け取っておりました。これからも監督が、なぜ私だったのか、なぜ私にたくさんのことを授けてくださったのか。その意味を、その答えを、自分自身が心の中で、監督に問い続けます。
今度は、私が監督を逃がしません。ですから、今日は「ありがとうございました」も、「さようなら」も、私は言いません。今後も引き続き、よろしくお願いします。そして、その強烈な光で、ジャイアンツの未来を、日本の野球の未来を照らし続けてください。
★日テレNEWS「巨人関連ニュース」 https://news.ntv.co.jp/tag/%E5%B7%A8%E4%BA%BA
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