中日OBで1999年優勝メンバーの武田一浩がドラゴンズを語る。1995年オフ、中日ドラゴンズは“武田獲得”を本気で狙っていた。当時日本ハムに所属していた武田は、その年のシーズン終了前後に“中日入り内定”という話を、明治大学の先輩・星野仙一から直接聞いていた。

 しかし、中日移籍は突如として消える。球団から言い渡されたのは福岡ダイエーホークスへのトレードだった。なぜ話はひっくり返ったのか。武田が明かす「幻の中日移籍」の舞台ウラ。【NumberWebインタビュー全3回の1回目/第2回、第3回も公開中】

「仙さん(星野仙一)から電話があったのは、シーズンが終わってすぐくらい。『お前、やっと決まったからな』って言われて。俺も『ありがとうございます』って答えたんだよ」

 1995年、日本ハムの武田は夏頃から二軍暮らしだった。1993年、前年に抑えから先発に転向した武田は10勝8敗、当時の自己最多となる170回1/3を投げ、ローテーションの一角として規定投球回数に到達、エース格に。しかし翌1994年、肩痛を発症し、5勝9敗と不本意な成績で終わっていた。

 捲土重来を誓ったその1995年、日本ハムは大沢啓二監督から上田利治監督に政権交代。武田はピッチングコーチとの関係が悪化し、一軍ではわずか2試合の起用で、プロ入り初の未勝利。しかし、ウエスタン・リーグではチーム防御率1位の成績を残し“充実のシーズン”を送っていた。

「二軍ではしっかり投げてたし、球威も戻ってきていた。一軍登板がなかったことでしっかりと自分の練習ができた。仙さんからは8月頃に様子を窺う電話がかかってきた。『お前何やってんだ?』って聞かれて、『ゴタゴタして一軍で投げられません』と答えた。そしたら、『練習しとけ!』って言われて。トレードで取ってくれたら面白いなって思っていた。『シーズン終わったら秋季の沖縄キャンプに来い!』って言われて。こりゃ中日決まりだなって」

 星野監督は当時、本気で武田の獲得を考えていた。1995年9月の監督就任決定後に前田幸長(千葉ロッテ)、村田勝喜(西武ライオンズ)の2投手をトレードで補強した。そんななか、経験豊富な武田の存在は、翌シーズンのチーム構想において欠かせないピースだった。だからこそ、明大の後輩である武田に直接電話をかけ、「来い」と言ったのだ。その言葉に武田も応えようとしていた。

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