現役引退後、スカウト、そして投手コーチとして長く中日ドラゴンズを支えた近藤真市。なかでも監督・落合博満の哲学は、忘れがたい教えとして頭に焼きついている。現役時代に7年、コーチ時代に8年。稀代の野球人と過ごした日々を振り返る。(全5回の4回目/5回目へ)※文中敬称略、旧登録名は「近藤真一」
――落合さんについてよろしいでしょうか。
「いいですよ。だって、うちの大学のユニホームは落合さんのときの(中日ドラゴンズ)だもん」
近藤はスマートフォンの中から、岐阜聖徳学園大のユニホームに身を包んだ写真を探しだし、私に見せた。
「ほら、これが俺の後ろ姿。まるっきりそのまま、ビジターでしょ。逆バージョンがホーム。これ、落合さんにも許可を得ているから」
二人の繋がりの深さを感じさせた。
近藤は1986年11月のドラフト会議で5球団競合の末、中日が交渉権を獲得。その1カ月後、落合のロッテから中日へのトレードが発表された。落合がフリーエージェントで巨人移籍した1994年、近藤は引退した。2004年から11年までの落合政権で、近藤は投手コーチを務めている。現役時代に7年、コーチ時代に8年、これほど長く落合とチームを共にした者はいない。
――選手時代、交流はあったのでしょうか。
「(中日入団は)同期ですけど、偉大すぎて、あまり話したことないですよ。それにね、投手と野手で違いますから」
――どういう印象でしたか。
「デビュー戦で2本打ってもらったのもあるし、翌日新聞を見たら、落合さんのコメントで『きょうは俺じゃない、近藤だよ』と書いてあったのをよく覚えています。もちろん、コーチとしては、前の年からやっていたけど、落合政権のときにも呼んでもらいまして」
近藤はあの日のことをはっきりと覚えている。
2003年10月17日、秋季練習初日を迎えたナゴヤ球場。落合博満が中日の監督に就任し、最初のコーチ会議で言った。
スタメンの選手、ケガ人の状況、故障の内容をマスコミに漏らすな。それは落合政権下の「鉄の掟」だった。

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