
阪急の4番打者として活躍した長池徳士(C)共同通信社
【元阪急ブレーブス森本潔 異端児と勇者たちの残響】#12
前身となる阪急軍から数え、今年で球団創設90周年を迎えた阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)。当時のパを代表する名手を幾人も輩出する中、ひときわ異彩を放っていたのが森本潔だ。球界から突如消えた反骨の打者の足跡と今を、ノンフィクションライターの中村素至氏が追った。(毎週木曜掲載)
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「阪急の人たちの遊びは豪快だったなあ」
こう語るのは松本幸行だ。70年代、星野仙一とともに中日ドラゴンズの投手陣を支えた「左のエース」。1980年に阪急へ移籍した。森本とは、77〜79年の3年間、中日でチームメイトだった。
「遠征先で、阪急の選手は全員が外に飲み行って、ホテルには誰も残っていないんだよ」
松本も中日時代、遠征先では毎日のように飲みに行っていたが、さすがにホテルに誰も残っていないことはなかったという。松本の移籍時は梶本隆夫監督だったが、西本幸雄監督時代からの伝統(?)のようなものだったらしい。
「西本さんは私生活には一切干渉しなかった。だから俺たちは遊び放題だった。巨人や阪神の選手みたいに注目されていないから、好き勝手にやっていたよ。遠征先でも、東京、博多(当時ライオンズの本拠地は福岡だった)と、試合後は遊びまくっていたよ」と、森本は語る。
「僕の先発する試合開始前に、あの人に『俺、今日は二日酔いやからエラーするぞ』と言われたことがあったよ」
68年に阪急に入団した元投手・宮本幸信から聞いたエピソードを伝えてみた。
「そんなこともあったかもしれんな。俺のこの性格だから、エラーしたって、投手に面と向かって『ごめんな』なんて言えないからね」
不動のレギュラーとなった森本だが、守備もバッティングもムラッ気のあるプレーヤーだったことは確かなようだ。
しかし、ここ一番の試合や局面には無類の勝負強さを発揮した。日本シリーズなどの短期決戦で活躍したのも印象に残る。
「森本さんは勝負強かった。ここで打って欲しい、という場面では四番の長池徳士さんより頼りになった」
宮本が言うように、四番長池の後の五番打者として得点圏のチャンスに頼りになるクラッチヒッター。引っ張り専門の長池と違い、右方向へも打てるのが森本の強みだった。
「でもね、右へのホームランは現役時代1本だけなんだよ。誰だったか忘れたけど、右投手から西宮球場のポール際に打った。あの感覚は覚えている。打った後に長池に『モリさん、今までなかったことだね。どうやって打ったの?』と言われたけど、研究心がなかったのかなあ。偶然の一発で終わってしまった」
長池の不調や故障の際には、四番を打つこともあった。本人は別に打順にはこだわりはなく、「四番目の打者という気持ちで打席に立っていた」と言うが、期待に応えて結果を出し、淡々としたペースで数字を積み上げるタイプだった。当時の主砲・長池とは対照的に、ムラッ気がありながら森本の勝負強さは尋常ではなかった。その秘訣とは何だったのだろうか。
「塁上に走者がいるときはモチベーションが上がった。負けず嫌いな性格だから、としか言いようがない」
(中村素至/ノンフィクションライター)

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