中原区出身で、健大高崎高校(群馬県)3年の佐藤龍月(りゅうが)さんが昨年10月、プロ野球のオリックス・バファローズからドラフト3位で指名され、入団が決まった。肘の手術を乗り越え、つかんだプロへの道。「1年目から1軍が目標。エースになり、日本を代表する投手になりたい」。国内最高峰の舞台に挑む。

 昨年10月23日の運命のドラフトの日。「自信が持てなくて指名されるか不安だった」。チームメイトの石垣元気投手が2球団から1位で重複指名され、千葉ロッテマリーンズが優先交渉権を獲得。その後、オリックス・バファローズの3位で、「佐藤龍月」の名前が呼ばれた。その瞬間にうれしさと安堵から涙が頬を伝った。「今まで家族や監督、部長、チームの仲間に支えられてきた。みんなの支えがなければ、手術してから復帰できなかった。一つ恩返しができたかなと思って」とその理由を語る。

高2で肘を手術

 大学まで野球をやっていた父親の影響で、大戸小1年のときに、2歳離れた兄と一緒に野球を始めた。入団した今井西町少年野球部では、当初は外野手、途中から投手も務めるように。小6では、中原区大会で優勝し「ジャビットカップ」に出場。そこでの活躍が目に留まり、プロ野球12球団が編成する小学生チーム「読売ジャイアンツジュニア」に選ばれた。

 西中原中に進学すると、兄が進んだ硬式野球クラブチームで強豪の「東京城南ボーイズ」へ。U─15日本代表に選ばれるなど活躍。世代を代表する投手として注目を集めた。さまざまなチームから声が掛かる中で、ここでも兄がいた健大高崎高校へ進学。「全国の強豪で、施設も充実していた。兄と一緒に甲子園に行きたかった」と理由を語る。

 入学後、すぐに試合に出してもらえるように。1年秋には、エースナンバー「1」を背負い、秋の県大会で優勝。春のセンバツでもマウンドに立ち、優勝に貢献した。「甲子園のマウンドは自分の力を最大限出させてくれる不思議な力があった。チームを勝利に導けてうれしかった」と振り返る。春夏連覇を目指した夏の群馬県大会。肘に痛みを感じながらもだましだまし投げていたが、限界に。靭帯損傷だった。「ショックだった。甲子園では投げられないことがわかった」。手術を受けると1年近く投げられない。家族や監督に相談した結果、早い復帰と次のステージを目指して手術することを決めた。

感謝を胸にマウンドへ目標はチームのエース

 肘にメスを入れた後、最初は腕が上がらず、動かすと痛みが走った。当たり前のようにやってきた野球の日々。チームメイトが帽子のつばに「龍月のために」と書いてくれていた。地道なリハビリを重ねていくうちに、可動域が広がり、肘の感覚も戻り始めた。次第にリハビりが楽しいと感じるようになった。「野球ができなかったからこそ、改めて野球が大好きなんだと実感した」と振り返る。

 予定よりも早く肘が回復し、昨年春のセンバツでは野手として復帰。夏の群馬県大会で投手として復帰した。久しぶりに踏む公式戦のマウンド。「今までしっかりリハビリをやってよかった。打者を相手に投げるのは、駆け引きもあってやっぱり楽しいと思った」。県大会を制し、初戦で敗れたものの甲子園のマウンドに立つこともできた。「スタンドから拍手で迎えてくれてうれしかった。改めて、支えてくれた皆さんに感謝の思いが強くなった」

 武器だったスライダー以外でどう相手を抑えていくか。手術前よりも球質が良くなり、球速も速くなった。目標にしていたプロの道へ。そして迎えたドラフト当日。オリックス・バファローズからドラフト3位で指名を受けた。「行けるならオリックスに行きたかった」。球界を代表する左腕・宮城大弥投手をはじめ、若手投手陣が活躍するオリックスに憧れを抱いていたからだ。

 1月7日に入寮し、10日から新人合同自主トレが始まる。「プロで戦える身体をつくって、1年目から1軍で投げることが目標。しっかり計画を立てて、目標を見失わずに日々成長していきたい」と意気込む。センバツ優勝という天国と、肘の故障という地獄を見た佐藤さん。「この経験があったからこそ、人間的にも、技術的にも成長できた。支えてくれた皆さんに感謝したい。チームのエースになって、日本を代表する投手になりたい。誰もが背番号41を着けたいと思ってもらえる選手になりたい」と抱負を語った。

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