
山田久志監督の言葉はうれしかったが…(C)日刊ゲンダイ
【山﨑武司 これが俺の生きる道】#61
国内FA権を取得した2001年オフは、「残留」と「移籍」で揺れる毎日を過ごした。
10月18日にはナゴヤ球場で秋季練習がスタート。32歳のレギュラー選手である俺も、なぜか当たり前のようにメンバーに入り、当たり前のように若手に交じって汗を流していた。
秋季練習初日、星野仙一監督の後任として来季から指揮を執ることが決まっていた山田久志監督にこう言われた。
「おまえが必要なんだ。絶対に残ってくれないと困る。来季からはレギュラーとして頑張ってくれ。俺たちと一緒に戦おう」
山田さんといえば現役時代、通算284勝という輝かしい成績を残した大投手。そんなスターが自分を全力で引き留めてくれることに感激した。中日では1999年から投手コーチ、01年にはヘッドコーチも兼任。星野監督から「継承者」としてチームを託されていた。
中日はこのオフ、自分とポジションのかぶるタイロン・ウッズ(当時、韓国プロ野球「斗山ベアーズ」)の獲得に動いていた。もしウッズが来れば、ゴメスや大豊泰昭さんを含めて一塁は“大渋滞”が起こる可能性も。起用法をめぐる球団への疑念は強くなり、25日には一度「FA宣言しよう」と決意した。
でも翌26日、球団の納会前に初めて正式に交渉し、心が揺らいだ。
新しく球団代表となった伊藤一正さん(故人)と初めて交渉した。提示額は希望より5000万円少ない「3年総額4億5000万円」。保留はしたものの、愛着あるチームを簡単に見切ることができなかった。
27日には、横浜が獲得へ乗り出したことが公になった。
妻に相談すると、「もし誘ってくれる球団があるなら考えてみたら?」という前向きな言葉。横浜からオファーが来たことを伝えると、「横浜に住めるの? みんなで行こうよ!」と言って、俺よりも行く気満々だったなあ。
28日には浜松で秋季キャンプが始まり、こちらも当然のように参加。30日には宿舎だったグランドホテル浜松で伊藤一正代表と2度目の交渉をしたが、提示額や条件は変わらず、最終的にFA宣言を決意した。
11月3日、練習前にFA権行使の書類を提出したその日の練習の合間、山田監督からこう声をかけられた。
「よく考えろよ」
このときは残ってくれとは言われなかったが、熱い言葉は心に刻まれていた。
4日後の7日に、中日との3回目の交渉。そしてその2日後の9日に、名古屋市内のホテルで横浜とのテーブルについた。提示された条件は「3年総額5億円」。俺が希望した金額だった。
「うちのチームにどうしても必要な選手だと思っている。家族のことも含めて、何も心配しなくていい。全面的にバックアップさせてほしい」
当時の大堀隆球団社長の熱い言葉に心を打たれ、その場で「お世話になります。家族の了承ももらっています」と答えた。
が、その言葉とは裏腹に、実は引っかかることがあった。
(山﨑武司/元プロ野球選手)

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