1936年4月19日、タイガース結成披露試合の甲子園球場スタンド風景。観衆は4225人だった=阪神球団発行『タイガース三十年史』より=
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 阪神タイガースは10日に球団創設90周年を迎える。1935(昭和10)年12月10日、大阪で球団設立総会を開いており、卒寿の満90歳となる。老舗球団の歴史は幾多の栄光に彩られ、そして苦難に満ちていた。先人たちが絶やさず、つないできた精神とは何だったのか。今春4月からの連載「TIGERS 90TH MEMORIES」の最終回として歴史の森に分け入ってみた。 (編集委員・内田 雅也)

 タイガースが初めて対外試合を行ったのは1936(昭和11)年4月19日、日曜日の午後だった。甲子園球場にセネタースと金鯱を迎え、球団結成披露試合である。新聞広告で「大阪タイガーを知らずに職業野球を語るなかれ」と宣伝した。

 初戦はセネタースに4―1、金鯱も9―3で破った。有料入場者は4225人だった。

 これで十分な入りだった。と言うのも、親会社・阪神電鉄が巨人の勧誘を受け、球団を持つかどうかの判断を下す「試験試合」を前年35年10月17日(木曜日)、甲子園球場で行った。米国遠征帰りの巨人が社会人・全大阪と戦い、沢村栄治の快投で2―1で勝った。この時の有料入場者数が4486人だった。

 本社事業担当役員の細野躋(のぼる)は満足していた。<私も大の野球ファンなので興味半分、仕事半分で大乗り気となり熱心に計画を練り、重役会で承認を得た>と阪神球団発行『タイガース三十年史』に記している。

 わずか4千数百人の観衆に将来の夢を描いていたのである。

 当時人気沸騰の甲子園の中等野球(今の高校野球)や神宮の東京六大学野球は数万観衆であふれていた。職業野球は「商売人の野球」と呼ばれ、認知度も社会的地位も低かった。いつの日か、甲子園を満員にしてみせると夢を描いた。

 球団経営は苦しかった。名物オーナーで知られた久万俊二郎は「1936年から72年までの37年間、赤字でございました」と明かしている。62、64年にリーグ優勝した当時もそれぞれ1億6000万円、1億7000万円の赤字だった。73年に観客100万人を超え、74年に初めて1600万円の黒字を計上した。

 以後、黒字が続いたが、95年の阪神大震災で再び赤字に転落した。「長い長い風雪の時代を耐えてきた」と当時球団社長・三好一彦が語っていた。

 今の甲子園のスタンドを思う。全試合大入り4万2000人以上が詰めかける。夢はかなったのである。

 球団創設時の選手は17人だった、90周年の間、何人の選手が在籍したのか、正式な資料はない。手もとで数えると、外国人や育成選手を含め1114人となった。選手だけの人数で監督やコーチとしてのみ在籍した野村克也や星野仙一、小谷野栄一は数えていない。打撃投手やブルペン捕手ら裏方も含めていない。ユニホームを着た者と広げれば、千数百人にのぼるだろう。

 晴れ舞台に立てなかった選手も多い。球団メディアガイドの1軍公式戦不出場選手一覧には244人の名前がある。源五郎丸洋や安達智次郎らドラフト1位投手も1軍登板は果たせなかった。片山大樹は長年、ブルペン捕手を務め、今年ブルペンコーチとして優勝を陰で支えた。

 作家・五木寛之のロングセラー『大河の一滴』(幻冬舎文庫)に<大河の水の一滴が私たちの命だ>とある。

 かつて監督を務めた吉田義男も岡田彰布も自分たちを「一コマ」だと言った。監督として吉田は3度8年、岡田は2度7年に渡り率いた。それでも「監督なんて、長いタイガースの歴史からすれば、ほんの一コマにしか過ぎん」。大切なのはタイガースなのだ。

 <やがて太陽の光に熱せられた海水は蒸発して空の雲となり、ふたたび雨水となって地上に注ぐ>。

 伝統を考える時、「ミスター・タイガース」藤村富美男が川藤幸三に語った「虎の血」を思い返す。日本一となる85年、甲子園のOB室に呼ばれた。「最近、世間は吉田阪神などという呼び名を使っているが、監督のためにやるのではない。わしらはずっと、ファンのためにやって来た。それが虎の血や」

 先人たちはファンを球場に呼ぼうと懸命に努めてきたのだ。
 100周年に向け、原点に立ち返りたい。思いを引き継ぎ、つなぐ。そうして一滴一滴がつくりだす大河は永遠に流れていくのである。 =文中敬称略=

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