熱心に打撃指導する山内監督
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 背番号3をもらった1983年(昭58)は打率が前年の・288から・247に。遊びすぎた。名古屋という土地柄。レギュラーになってチヤホヤされ、調子に乗ってしまった。

 チームも優勝から一転5位に沈み、近藤貞雄監督が退任。84年、後任としてやって来たのは山内一弘さんだった。

 「打撃の職人」「シュート打ちの名人」の練習は独特。水の入ったバケツを投げさせたり、打った瞬間にバットを離させたりする。狙いをちゃんと説明してくれないから分からない。話をすると本当にいい人なのだが、全てにおいて難しく、ついていけなかった。

 キャンプ中にロングティーをやっていた時、監督がいる前で、あるコーチに「俺の言うことと監督が言うことのどっちを聞く?」と聞かれ「コーチです」と答えた。

 それ以来、山内さんは僕にバッティングについては何も言ってくれなくなった。そればかりか「センターは豊田(誠佑)か川又(米利)でええやろ」とコーチに話していると聞いた。

 こりゃいかん。オープン戦から珍しく張り切った。そこそこの成績を収めて、2番センターの定位置をキープ。9月5日の巨人戦(ナゴヤ球場)で槙原寛己から死球を受け、右手の尺骨を骨折するまで打率・291を残した。

 離脱したままシーズンを終え、チームは優勝した広島に3ゲーム差の2位。いろんな人に「お前がケガしたから優勝できなかったんだ」と言われた。

 翌85年、キャンプインを目前にした1月24日。田尾安志さんと西武の大石友好さん、杉本正との1対2の交換トレードが発表された。びっくりしたなんてもんじゃない。

 田尾さんははっきり物を言うタイプで、選手会長として球団にいろんな要望を出していた。チームにとってよかれと思って話した建設的な意見をフロントに煙たがられたらしい。

 僕にとっては1、2番コンビを組んできた相方。不動の1番打者がいなくなれば、役割が変わる。開幕は1番。途中から2番に戻ったりもした。

 夏場に調子を上げ、8月中旬に打率を・312まで上げた。その後3割を切ったが、10月23日、シーズン最後の広島3連戦(広島)初戦に4打数2安打でジャスト・300に戻した。

 翌24日のダブルヘッダーを休めばよかったが、初の130試合フル出場もある。2試合とも出て7打数2安打。打率は・2998となった。

 最後の打席は2―2で迎えた延長10回2死二塁。捕手の山中潔に「3割が懸かってるんだ。勝負してよ」と頼んだが、山中は電光掲示板の「・300」を見て「3割じゃないですか」。勝負してもらえず、歩かされた。

 四捨五入で切り上げの3割。納得いかなかった。

 ◇平野 謙(ひらの・けん)1955年(昭30)6月20日生まれ、名古屋市出身の70歳。名古屋商大から77年ドラフト外で中日入団。88年に西武、94年にロッテ移籍。右投げ両打ち。俊足強肩の外野手として活躍する。ゴールデングラブ賞9回。盗塁王1回。歴代2位の通算451犠打。引退後はロッテ、日本ハム、中日、社会人、独立リーグなどで指導を続ける。現在はクラブチーム、山岸ロジスターズ監督。

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