
名古屋商大時代の投球フォーム
Photo By 提供写真
名古屋商大ではずっと投手だった。1年秋に投手でリーグ戦デビューし、2年秋には代打で出て、そのままセンターを守ることもあった。自分としては外野手をやりたくて、杉浦計司(けいし)監督に毎年「変えてください」とお願いしたが「もう1年頑張れ」と言われ、気がついたら4年間投げ続けていた。
当時1部6、2部4、3部4の14校が所属していた愛知大学野球連盟。僕が在籍していた1974年(昭49)からの4年間、1部から落ちたことは一度もない。
優勝は2回。2年春は主にリリーフで、3年秋は先発で8勝を挙げて10勝3敗1分け、勝ち点5の完全優勝に貢献し、初のベストナイン、最優秀選手賞に選ばれた。打っても6番や5番に入って30打数10安打、打率・333の数字を残している。
4年春は投手として4番に入っただけじゃない。投げない試合はセンターや一塁を守って4番を打った。でも、このシーズンは前季の優勝から一転3勝10敗1分け、勝ち点0で最下位に転落。初めて1、2部入れ替え戦を戦うことになった。
2部優勝の愛知大が相手。初戦1―1で引き分けた後、2回戦3―1、3回戦2―0と接戦をものにして何とか1部に踏みとどまった。3連投。必死だった。どの試合か忘れたが、スクイズの打球を飛び込んで捕りに行ったのを覚えている。投手で打球に飛び込んだのは初めてだった。
大学野球の聖地、神宮球場には縁がなかった。2年春は全日本大学野球選手権に出場しながら、神宮第2球場で行われた1回戦で九産大(福岡六大学)に0―2で敗退。3年秋は神宮大会出場を懸けた北陸地区の福井工大との戦いに1勝2敗で敗れた。
全国的に無名のまま終わった僕のことを見ていてくれたプロ野球関係者がいる。慶大から65年ドラフト3位で中日に入り、西鉄(現西武)、巨人でも活躍された広野功さんだ。
僕の野球人生に深く関わってくれることになる広野さんは74年、中日に復帰して現役最後の1年を過ごし、引退後は中日スポーツの記者になった。76年はアマチュア野球担当。僕の3年時のプレーを見て「平野は野手の方がいい」と思ってくれていたらしい。77年はドラゴンズを担当し、オフに現場へ戻って2軍打撃コーチに就任した。
僕にプロからのアプローチは一切なく、お話をいただいた社会人の三菱重工名古屋にお世話になるつもりだった。「プロに声掛けられたらどうしますか?」「行かないす」というやりとりをしたのを覚えている。
当然、ドラフトでは指名がなかった。ところが、その後、僕の周辺は風雲急を告げることになる。中日スポーツが「ドラフトに失敗したドラゴンズが地元の選手を物色している」という内容の記事を掲載したのがきっかけだった。
◇平野 謙(ひらの・けん)1955年(昭30)6月20日生まれ、名古屋市出身の70歳。名古屋商大から77年ドラフト外で中日入団。88年に西武、94年にロッテ移籍。右投げ両打ち。俊足強肩の外野手として活躍する。ゴールデングラブ賞9回。盗塁王1回。歴代2位の通算451犠打。引退後はロッテ、日本ハム、中日、社会人、独立リーグなどで指導を続ける。現在はクラブチーム、山岸ロジスターズ監督。
続きを表示

NPBHUB.COM | The Fanbase of Nippon Baseball & Nippon Professional Baseball