犬山高でバッテリーを組んだ千田浩一郎君(右)とのツーショット
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 1回戦コールド負けであっさり終わった高校最後の夏。進路をどうしようかと考えていた時に犬山高校の大先輩、本多逸郎さんから「ドラゴンズの練習に行こうよ」と誘われた。

 本多さんは「4番でエース」として1948年(昭23)夏の愛知大会で母校を決勝に導き、50年に中日入団。中堅手として54年の初優勝に貢献し、引退後はコーチ、2軍監督、スカウトを歴任された。よくボールをもらいに行ったりしていた。

 中日球場の秋季練習。軽い気持ちで行ったら、どうやら入団テストで、もう一人、岐阜の高校生がいた。初日は雨。室内ブルペンに入ると、凄いボールを投げている投手がいる。

 ホームベースにつくんじゃないかと思えるボールがホップしてストライクゾーンへ。プロって凄いんだなと思った。背番号29。千葉県の成東高校からドラフト1位で入団して1年目の鈴木孝政さんだった。
 練習には2、3日参加し、本多さんに言われた。

 「とりあえず今回は縁がなかったけど、大学か社会人に行ってまた頑張りなさい」

 要するに「不合格」ということだ。

 そのうち名古屋鉄道管理局(現JR東海)に進んだ1学年上の先輩から連絡があり、セレクションに参加。たまたまいいバッティングができ、入れてもらえそうな感じだった。

 そこへ名古屋商科大学の杉浦計司(けいし)監督が自宅に来て「ウチでやらないか」と誘ってくれた。ありがたい話だが、大学に行ったらお金がかかる。社会人に行けば、給料がもらえる。大きな違いだ。
 お断りするつもりで正直に家庭の事情を話すと「だったら特待生という形で。お金はいらないから」。そう言われて心が揺れた。

 両親を早くに亡くし、姉は大学へ行って教師になるという夢を諦めている。自分だけ行っていいものか。迷っていたら姉が「そういう話だったら大学を出るのは悪いことじゃないよ」と背中を押してくれた。

 74年4月、特待生として名古屋商大に入学。名古屋市昭和区御器所(ごきそ)の寮に入った。寮といっても付属高校(現名古屋国際高校)の校舎で、6階の空いている教室に畳を敷いて雑魚寝。食堂も風呂もなかった。

 ポジションは投手。1年生は僕だけだった。きつかったのは両翼ポール間のランニング。監督が見に来た時に誰も走っていなかったら具合が悪い。上級生に「お前、ずっと走っとけ」と命令された。

 なんで自分だけ…。もう悔しくてね。泣きながら走った。でも、これが将来につながったように思う。足は速くなかったのに、疲れた中で走っているうちに良いフォームが身についていった。「俊足」といわれるようになるのは、この理不尽なランニングのおかげだった。

 ◇平野 謙(ひらの・けん)1955年(昭30)6月20日生まれ、名古屋市出身の70歳。名古屋商大から77年ドラフト外で中日入団。88年に西武、94年にロッテ移籍。右投げ両打ち。俊足強肩の外野手として活躍する。ゴールデングラブ賞9回。盗塁王1回。歴代2位の通算451犠打。引退後はロッテ、日本ハム、中日、社会人、独立リーグなどで指導を続ける。現在はクラブチーム、山岸ロジスターズ監督。

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