技術と体力60%、運20%、自己管理20%――。日本球界最多の3085安打を積み上げた張本勲は、プロで生き抜く秘訣をこう説いている。稀代の大打者は、どのように“成功の3要素”を得たのだろうか。入団からプロ1年目を追った。【全3回の1回目/2回目へ】
「張本はね、本当はジャイアンツに行きたかったらしいんだな。でも、いろいろあった末に、同じ広島出身の岩本(義行)監督、浪商の先輩・山本八郎のいた東映に入団したみたい。『おまえ来い』と言われたら、行かなきゃいけなかった。すげえ時代だよ(笑)」(1956年から3年間東映フライヤーズに在籍し、OB会会長も務めた八名信夫)
張本は浪華商業高校(大阪)2年の夏頃、巨人・水原円裕監督と直接会い、〈すぐにでもウチにこないか〉(※1)と入団を勧められた。当時はドラフト制度がなく、学校を中退してプロ入りする選手もいた。だが、毎月仕送りをくれる兄が「高校だけは卒業してくれ」と反対。弟は素直に従った。
2年秋の近畿大会大阪予選、張本は13試合11ホーマー、打率.560とその名を轟かす。しかし、その直後に上級生が下級生に暴力を振るった事件が発覚。その責任を背負わされ、張本に休部命令が下った。本人は、著書にこう記している。
〈天地神明に誓って「暴力はふるっていない」と断言する〉(※2)
もともと監督と折り合いが悪かった張本は、濡れ衣を着せられた。この処分によって、春はおろか、夏の甲子園にも出場できず、青春が終わった。
それでも、超高校級の18歳はプロ10球団から誘いを受ける。その中に、巨人の名前はなかった。水原はこう述懐している。

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