2025年、阪神タイガースはセ・リーグ首位を快調に走っている。しかしさかのぼること30~40年前は「暗黒時代」の真っただ中にいた。1970年代に電撃トレードで阪神に入団した“エモやん”こと江本孟紀氏が明かす当時のウラ話を『阪神タイガースぶっちゃけ話 岡田阪神激闘篇』(清談社Publico)から一部転載でご紹介します。〈全9回。第4回につづく〉

「打線は水ものである」とはよくいったもので、いまがどんなによくても、翌年以降も現在と同じように打てるとはかぎらない。

 これは投手である私にも同様のことがいえたのだが、1977年、1978年とそれなりにチームに貢献した。だが、私の投手成績と反比例するかのように、阪神は1977年に4位、1978年にいたっては球団創設初となる最下位になったのである。

 阪神が低迷した要因は明快だ。「本気でチームを強化しようという意欲に欠けていた」からである。吉田さんが1977年かぎりで監督を退き、広岡達朗さんの招聘に失敗した球団が急場しのぎに監督に就任させたのが、阪神OBの後藤次男さんだった。

 後藤さんは温厚な人柄と風貌から「クマさん」と呼ばれていたのだが、社内の人事異動のように組閣されたコーチ陣は後藤さんのマージャン仲間ばかり。情熱を持って野球を教えるという雰囲気はなかった。そのうえ、マスコミから「今年のキャッチフレーズはなんですか?」と聞かれると、「みんな仲よくボチボチと」と呑気に答えるありさまで、戦う集団とはほど遠い、ゆるやかな空気がチームを支配した。

 悪いことはこれだけにとどまらず、開幕からラインバックとブリーデンが相次いで戦線離脱。田淵さんや掛布も死球で離脱するなどして、開幕からずっと低迷したまま。挙げ句には後藤さんの担当記者がスタメンを考える事態も起き、チームが上昇する気配を一度も見せることなく最下位を突っ走っていたのだ。

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