セ・パ両リーグで本塁打王に輝いた山崎武司。じつは幼少期、巨人に憧れた野球少年が中日に入団し、闘将・星野仙一のもとで過ごした日々をNumberWebのインタビューで語った。そのダイジェスト版をお届けする。
「高校の監督とも『ジャイアンツで決まりだな』と話していました。子どもの頃から好きな球団でしたし、家族も全員ジャイアンツファンでした。周りはドラゴンズファンばかりでしたが、王さんや長嶋さん、中畑清さんや原辰徳さんといったスター選手に憧れていました」
プロ野球生活27年、歴代20位となる通算403本のアーチを架けた山崎武司のプロ野球人生は“不運”な幕開けだった。
ドラフト会議で「裏切られた」18歳の絶望と覚悟
巨人が桑田真澄をドラフト1位で指名して物議を醸した1985年のプロ野球ドラフト会議。その翌年に愛工大名電で強打の捕手として知られていた山崎は、巨人から指名されるはずだった。巨人のスカウトからは「1位は亜細亜大の阿波野(秀幸)投手を指名する。他球団との競合が予想されるので、外れた時は君を1位で指名するから」と約束されていた。
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しかし巨人は阿波野が外れると、外れ1位で日大明誠高校の木田優夫、2位で河合楽器の水沢薫を指名。山崎は中日に2位で指名され、「全12球団のうち、当時は絶対に入団したくない球団が3つありました。そのうちの1つがドラゴンズでした」と落胆する。
山崎は社会人に進んで3年後のドラフトで巨人からの指名を待つ道を選ぼうとした。しかし悩んだ末、出した結論は「中日入り」だった。
「ジャイアンツが指名しなかったことを後悔する選手になろうと切り替えました」
突然の米国行きとクビ寸前の26歳での結婚秘話
入団後の山崎はプロ1年目の春、同期入団の荒川哲男らとともに星野仙一監督から突然「お前ら、あすからアメリカに行ってこい」と命じられる。米国のルーキーリーグでの経験や、その後のドミニカ共和国での経験が山崎を成長させた。
プロ入りから年数を重ねるも、一軍定着は容易ではなかった。

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