高卒1年目に中日ドラゴンズで鮮烈な輝きを見せた上原晃は、手指の血行障害に苦しみ、プロ9年目の1996年に戦力外の憂き目にあった。ドラフト時は獲得を熱望し、強行指名まで敢行した星野仙一にクビを切られた右腕は、他球団で現役続行の道を模索したが……。「星野さんに恨みはない」「潰されたとは思っていない」と語る、上原の未練とは。現在は指導者として活動する“消えたスーパールーキー”の本心に迫った。(全4回の4回目/#1、#2、#3へ)
「星野さんには恩義はあれど、恨みはないですね」
高卒ルーキーとして1988年の中日の優勝に貢献した上原晃は、96年オフに自由契約となった。どれほど大器だ、未来のエースだと期待されていても、結果が出なければ戦力外通告を受ける。プロ野球の世界は無情である。
「クビになったのは自分の実力がなかっただけ。星野(仙一)さんには恩義はあれど、恨みはないですね。後になって知ったんですが、『どこも声をかけなかったら拾えばいい』と話していたみたいです」
星野としては「強引に獲った」という引け目から引退後の面倒を見ようという親心だったのかもしれない。だが結局、上原は中日から球団職員やコーチのオファーはもらっていない。
ADVERTISEMENT
中日退団後、すぐさま広島から声がかかり、上原は熟考したのちにテストを受けて広島に移籍した。キャンプまでは一軍だったが、開幕前に二軍落ちを告げられた。
「当時の広島は一軍に三村敏之監督、二軍に安仁屋宗八監督という布陣で、二軍はとんでもない練習をしていました。試合前にダッシュ50本とか……とにかく厳しい練習だった」
二軍監督の安仁屋は同じ沖縄県出身。各都道府県にある沖縄県人会の結束の強さは類をみない。だからといって安仁屋は上原を特別待遇などしなかった。同郷のよしみで親しげに声をかけることもなく、あくまでもプロの指導者と一選手という関係性を保った。上原はたった1年で広島から戦力外を言い渡される。
「広島をクビになったときは、なかなか答えが見つからないまま投げていた。昔のイメージ通りの150kmの球を追い求めても、145kmも出ない。ここらへんで潮時かなと思ったけど、まだ28歳だったし、『もっとやりたい、できる』と言い聞かせた。これでダメなら終わりという思いでヤクルトのテストを受けたんです」

NPBHUB.COM | The Fanbase of Nippon Baseball & Nippon Professional Baseball